天皇により勅定されてきた年号


 この年号制度は、大宝から今日まで1300年あまり一年も途切れることなく続いてきた。しかも、本家の中国で清朝の滅亡(辛亥革命、1911年)とともに廃止され、今や日本にしかない超国宝級の無形文化といえよう。

 これが長らく続きえたのは、朝廷が実力をもっていた飛鳥・奈良・平安時代のみならず、幕府が武力で全国を支配した鎌倉・室町・江戸時代でも、立憲公議政体となった明治以降でも、強弱の違いはあるにせよ、常に天皇(すめらみこと=統る尊)が国家・国民統合の最高権威と仰がれながら在位してこられたからである。

 それを立証するのが、年号の選び方である。明治以前の年号は、天皇の代始(即位直後)以外に、珍しい吉兆が現れたり、著しい災異が起きたり、また変革年と恐れられた干支の辛酉(かのととり)・甲子(きのえね)の年など迎えるたびに、しばしば改められてきた(一号平均5~6年)。しかし、その改元を発議されるのは、原則として天皇であり、また新元号を公布したのも天皇の詔書である。

 改元の大まかな手続きは、天皇から発議の御意向を承った大臣が、大学寮などの学者(平安中期以降ほとんど菅原道真の子孫)数名に命じて、漢籍(歴史・哲学・文学の古典)から良い文字案を選ばせる。そこから10個近い案が提出されると、公卿(くぎょう)(現在の閣僚)が会議を開き、文字案の一つ一つについて慎重に審議し(論難と陳弁を繰り返す)、良案3個に絞って天皇に奏上する。それを御覧になった天皇が、その中から最良案を選ぶよう仰せられると、再び審議してベストの一案を決めて再び奏上すると、それを承認することにより「勅定」されたことになる(その際、異論を述べられたり差し戻された例もある)。

 ついで、勅命を受けた係官が「改元詔書」の案文を作成し、それを奏上して勅許されたら清書する。その改元詔書は、太政官から全国の国府に伝達され、すみやかに施行されることになっていた。

 ただし、中世から近世にかけて、とりわけ江戸時代には、幕府の介入が慣例化している。具体的には、幕府から改元を要請した例が少なくない。また朝廷の学者が提出した文字案を江戸に送らせて、老中が幕府の儒官(林家など)の意見により良案を選んで京都に戻すと、朝廷の会議では幕府の意向に沿った結論を奏上している。さらに新元号の詔書が出ると、それを江戸に送らせ、登城した諸大名に伝達してから新元号を使わせている。とはいえ、それが時の天皇陛下により勅定されたものであるという原則に変わりはなく、その権威を幕府側が利用したことになろう。