明治以降の「一世一元」と「元号法」


 やがて幕末に近づくと、全国的に尊王意識が高まる。年号の在り方についても、天皇の一代に一号(一世一元)にすべきだという意見が、大阪の町人学者中井竹山や水戸の若い歴史家藤田幽谷らによって提唱された。それを公式に採用したのが、慶応4(1868)年の「明治」改元にほかならない。

 これを提案した岩倉具視の依頼を受けた議定の松平春嶽は、宮廷儒者から提出された文字案を調べて、三つに絞った案を内裏の賢所(天照大神の神鏡を祀ってある所)に供え、天皇(数え16歳)がくじを引かれて「明治」に勅定された。その出典は『周易』に「聖人南面して天下を聴けば、明に向いて治まる」とあり、8月4日に次のような「改元詔書」が公布されている(これ以後、年号を元号という)。

慶応四年を以て明治元年と為す。今より以後、一世一元、以て永式と為せ。

 これを受けて、明治22(1889)年『皇室典範』第12条に「践祚(せんそ)(天皇の位を継ぐ)の後、元号を建て、一世の間に再び改めざること、明治元年の定制に従ふ」と定められ、さらに同42(1909)年の『登極令(とうきょくれい)』で次のごとく厳密に規定された。

第二条 天皇践祚の後は、直ちに元号を改む。元号は枢密顧問に諮詢(しじゅん)したる後、これを勅定す。
第三条 元号は詔書を以てこれを公布す。

 それから3年後(1912)の7月、明治天皇(満59歳)の崩御により大正天皇(満32歳)が践祚されると、直ちに、あらかじめ内閣と宮内省で用意した文字案を枢密院で審議せしめ、全会一致で可決した「大正」を承認して勅定された。そして「明治四十五年七月三十日以後を改めて大正元年と為す」という改元詔書が公布されている。

 それと同様に、足かけ15年後(1926)の12月、大正天皇(47歳)の崩御により昭和天皇(25歳)が践祚されると、直ちに改元手続きを経て「大正十五年十二月二十五日以後を改めて昭和元年と為す」という詔書が公布されたのである。

 こうして「一世一元」の元号制度は定着したかにみえた。しかし、敗戦後の日本を占領統治したGHQは、昭和21(1946)年明治憲法の全面改定だけでなく、皇室典範と登極令などの廃止を命じた。そのため「昭和」元号は、事実たる慣習として使われたが、次の元号を定める法的根拠はない状態に陥った。そこで、「明治百年」の昭和43(1968)年ころから「元号法」の制定運動が起こり、ようやく同54(1979)年に次のような法文が制定公布されるに至った。

1.元号は、政令で定める。
2.元号は、皇位の継承があった場合に限り改める。

 この1は、長らく年号=元号を勅定されてきた天皇が、新憲法で「国政に関する権能を有しない」と制約されたため、代わりに政府が「政令」で定めることにしたのである。しかし2で、その元号は「皇位の継承があった場合」に限って改める「一世一元」の原則を続けるとしたところに、大きな意味がある。