私は報道写真家として世界を巡り、多くの国境を通過する機会があった。どの国境も武装した国境警備軍が警戒の眼を光らせていた。戦車や機関銃座が据えられ、厳しいチェックを受けた。この経験から「日本の国境」に興味を抱いたのは私にとって当然の帰結であったように思える。

 1990年以来、機会あるごとに国境の島に上陸し取材を重ねてきた。北方領土に関しては、北海道・根室の納沙布岬に北方領土館や望郷の家などの施設もあり、それなりに返還運動も行われていたが、政治家、官僚、マスコミ、一般大衆を含め、竹島への関心は薄かった。 

 「何かおかしいぞ」とことあるごとに感じた。例えば、2005年に島根県が「竹島の日」を制定した直後に韓国が猛反発し、抗議の渦が沸き起こったときに、テレビも新聞も雑誌も、日本のメディアの多くは、ニュース報道などで韓国側に提供された「独島(竹島の韓国名)」の映像や写真を当たり前のように使っていることであった。韓国人によって撮られた写真は「独島」であって竹島ではない。

 「日本人の眼で見た日本の竹島を誰かが撮らなければならない。できれば自分が撮りたい」。この気持ちが竹島取材の原動力だったような気がする。

 これまで3回の竹島上陸取材を敢行した。初の上陸は2006年5月、海洋警察の監視の眼をかいくぐっての撮影だった。この時、島は「要塞島」であった。山頂には多目的3インチ機関砲が据えられ、武装兵が小銃をかざし、アンテナ群、隊舎などが設置されている。
2006年、韓国が不法占拠する竹島の山頂にあるアンテナ群や韓国警備隊の宿泊施設(山本皓一氏撮影)
2006年、韓国が不法占拠する竹島の山頂にあるアンテナ群や韓国警備隊の宿泊施設(山本皓一氏撮影)
 なにか「日本時代の痕跡」は残っていないだろうか。眼を皿のようにして探したが見つけられなかった。小屋の跡はおろか、食器皿の欠片も転がってはなかった。滞在時間はわずか30分だ。島中を探す余裕はなかった。

 2回目は2011年8月、日本から鬱陵島(うつりょうとう)にある独島博物館を訪れようとした日本の国会議員3名が「ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)」として国外退去を強要された3日後のことであった。要塞島は大変貌を遂げていた。ヘリポートは40人乗りの大型ヘリが離着陸可能なように改修され、岸壁も拡張され、500人の乗客を運ぶ大型双胴船ウリ号が接岸していた。

 前回の上陸時、鬱陵島から2時間半をかけて到着した三峰号は200人乗りで、日本から購入した中古船だった。韓国政府は安全保障教育のため「安保観光」を奨励している。38度線の南北軍事境界線や侵攻トンネルなどの見学ツアー、北朝鮮のサンオ型潜水艦が東海岸の江陵(カンヌン)に侵入座礁し、銃撃戦が起こった現場などと同様に竹島(独島)にも押し掛ける。以前は海軍OBや愛国団体の観光客が韓国旗をかざして気勢を上げていたが、今ではリゾート感覚で訪れる若者やカップルが多くなった。

 どうやら韓国政府は竹島に対する考え方を方向転換したようだ。かつて日本漁船を砲撃し、44人もの死傷者をだした「武力による実効支配」から観光客が気軽に訪れる「ソフトな実効支配」に変わっているのだ。