白村江から「刀伊(とい)の入寇」。そして元寇、秀吉の朝鮮出兵。薩英戦争、下関戦争はイギリスの侵略に対して立ち上がり、実際には日本の勝ちであった。なぜ教科書では負けたことになっているのか?

 日清・日露は左翼的傾向の強い司馬遼太郎でも防衛戦争であることは認めている。第一次世界大戦への参加は日英同盟の結果であり、第二次世界大戦は欧米の理不尽な侵略にやむにやまれず立ち上がった、その精神には崇高さがあった。

 キリスト教が布教されると植民地化されるということを、信長も秀吉も宣教師の言い分ややり方を見て、よく理解していた。

 キリシタンバテレンにそまった大友藩などでは神社仏閣を破壊し、異教徒の女性を拉致して外国へ売った。バテレンたちは、やがて侵略に備える下準備、その工作のために派遣されてきたスパイでもあった。織田信長も秀吉も、そうした認識ができていた。したがって朝鮮を助けるために進出しても、「侵略をしない」というのは「刀伊の入寇」「元寇」で明らかである。

 賠償を求めたり、土地を奪ったり、攻めて支配したりするということは一切しなかった。
対馬から向こうへ追い返したら、それ以上は何もしない。西洋人が戦争に勝ったときのように、相手に対して多額の賠償を要求し、さらに占領して搾取しようとするということはなかった。植民地化し、略奪・収奪して利益を得るといった西洋の方法はとらなかったのである。こうした日本人の態度は、西洋的な侵略とは異なる。

 第一次世界大戦中、マルタに送られた日本軍は日英同盟によって艦船の護衛にあたる任務についた。ドイツのUボートの潜水艦攻撃を受け、59人の日本軍人が犠牲となった。その慰霊碑はマルタのイギリス海軍墓地の中央部にある。日英同盟の結果、介入せざるをえなかったからだ。ドイツが濡れ手に粟でつかんでいた山東半島から南太平洋の島々を、日本軍は次々と落としていった。

 「アジアにおけるドイツの権益を合法的に奪った。これを単なる漁夫の利だという人もいるが、日清・日露戦争を利用してドイツがアジア周辺で占領していったものを日本が粉砕した」(田中前掲書)だけの話である。

 さて「通州事件」により、日本は朝野をあげて「暴支鷹懲(ぼうしようちよう)」の合唱になった。

 一気に国論がまとまったため、結果的に泥沼の戦争に巻き込まれてしまった。つまり、日本を戦争に引きずりこむために計画された陰謀の一環だった。加藤康男氏がその書で結論したように、通州の虐殺には「冀き東とう防共自治政府保安部隊」と国民党との密約が存在していた。彼らはもっと大規模な同時多発テロを準備していた。 中国の「兵」の定義に留意しておく必要がある。

 加藤氏は次のように言う。

 「中国では『兵』と『匪賊』の差がほとんどないのが実情だった。満洲まで含めれば『匪賊』に『緑林(りよくりん)』(盗賊、馬賊)が加わる。兵が脱走して匪賊・馬賊となり、匪賊、馬賊が帰順して兵となるのが日常化していると考えればよい」(前掲書)

 まさにいまもそうではないのか。経済統計の嘘を公然と発表し国内外の投資家を欺(あざむ)きながら、高官がやっていることは資産の海外移転だ。どこに兵と匪賊の区別があるのか。

 通州事件前夜、あまりに悪い治安状況があり、重税が課せられた北シナでは、自治政府が結成され、河北省のリーダーが段汝耕(いんじよこう)だった。ほかにも宋哲元(そうてつげん)らがいた。彼らは「親日派」とされ、うっかり日本軍は段汝耕らを信じたが、地下で蒋介石とつながっていたのだ。 そして実際の虐殺では、シナの正規軍は日本の保安部隊と自治政府の保安部隊を襲い、数時間の戦闘となるのだが、そのあとで起きた民間人の虐殺は、匪賊系、つまり蒋介石の別働隊である「藍衣社」系列の殺人部隊が行ったのである。