昭和20~30年代、日本国憲法や日米安保条約など、暫定的な法律であると認識されていた。保守政党のみならず、社会党をも含めて、政界全体の常識であった。
 ところが、自主防衛はおろか、「自主憲法」という言葉そのものが死語になった。憲法改正と言おうが、自主憲法制定と言おうが、言葉はどちらでもいい。問題は中身だ。
 現在の改憲論議が、日本国憲法の条文を変えるか変えないかの議論に終始してきた弊害は、各所で指摘してきた。

 本来の憲法論議は、先に「日本国をどうするのか」の国家経営の議論があって、後に憲法典の条文をどうするのかの議論であるべきだ。ところが、誤植も含めて一字一句変えたくない護憲派と、日本国憲法(特に9条)の字句を何でもいいから変えたい改憲派。一体何がしたいのか。

日本国憲法

第7条

四 国会議員の総選挙の施行を公示すること。

第9条

1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 7条の「総」一字が誤植である。衆参同日選挙でも参議院は半数改選なので、「国会議員の総選挙」は日本国憲法では存在しない。この誤植一文字すら、変えられなかった。
 9条をよく読んでほしい。どこに「自衛隊にトイレットペーパーを支給してはならない」などと書いてあるのか。それとも、「そもそも自衛隊は違憲の存在なのだから、トイレットペーパーを1ロール以上支給してはならない」などという解釈でもひねり出す気か。ならば1ロールに限る根拠は何なのか。9条をめぐる憲法論議など、この程度である。

 かつて、岸信介内閣は憲法9条下でも核武装は可能との解釈をひねり出した。日本国憲法など、そのような解釈も可能なほどデタラメなのである。
 別の例を出す。
「憲法9条を変えない限り、北朝鮮拉致被害者は奪還できない」としたり顔で説教する自称改憲派にも、しばしば出くわす。

 では、拉致被害者や家族は、百年河清を待つがごとく憲法改正を待てと言うのか。それよりも、憲法典と何の関係もなく拉致被害者を取り返した小泉純一郎のような政治家を望んでいるのではないのか。

 なぜ小泉内閣が拉致被害者を取り返せたか、一言しておく。
 2001年当時、9.11テロでアメリカは「テロとの戦争」を宣言した。小泉内閣はいち早く応じ、イージス艦をインド洋に派遣するなど同盟の義務を果たした。年末には、北朝鮮の不審船を自沈に追い込み、その上で残骸を引き上げてさらし者にした。「1人も返さないような態度なら、殺すぞ」との国家意思を示したのだ。