また、憲法典で定めが置かれていても、その条文そのものが簡潔なために、基本的な原理・原則だけを掲げていると解釈すべきものも多い。基本的人権の規定の多くはそうである。例えば、憲法21条1項は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定める。しかし、だからといって、名誉やプライバシーを傷つける表現行為を考えればわかるように、どのような表現行為であっても保護されることにはならない。

 そこで、憲法21条1項は、表現の自由を基本原理として保障したものであり、法律によって表現の自由と他の利益との調整を図ることも、説得的な理由がある場合には認められる、と解釈することになる。法律の規制が強すぎて、表現の自由が侵害されてしまわないようにするため、法律を定める際に政府でも内閣法制局を中心に検討するし、国会でも議論が行われるが、最終的には、法律が定められた後に、その法律が適用される具体的な事案をめぐる裁判の中で、最高裁判所が、具体的な事実関係に即して現実に表現の自由が他の利益との間でどこまで保障されるのかを明らかにする。

 こうして、最高裁判所の判例によって憲法の条文の意味が補充され、具体的なものとして姿を現す。そして、判例の積み重ねの中で、具体的な人権保障のありようが展開していくことになる。

 たとえば、日本国憲法に明文化されていない「新しい人権」は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と定める13条から導き出すことが可能であると説かれ、判例も、慎重な歩みではあるが、プライバシー権を憲法上の人権であると実質的に認めるに至っている。

 このように、日本国憲法が統治機構の仕組みや人権の保障に関する規範など重要な事項だけを定める簡素なものであることによって、時代の変化に応じた社会の要請に対しても、法律や判例により柔軟に対応し、憲法秩序の「バージョンアップ」を図っていくことができているのである。ここ20年をみても、90年代末からの行政改革(内閣の機能強化など)、司法改革(裁判員制度の導入など)も大規模な統治機構改革であったが、これらも法律の定めによって実施されている。

 また、人権保障の場面でも、最高裁は、在外日本人に選挙権の行使を認めていなかったことが憲法15条に違反すると判断したり、嫡出でない子の法定相続分を嫡出子の2分の1とする民法の規定、そして女性の再婚禁止期間を6カ月とする民法の規定がそれぞれ憲法14条1項に違反すると判断したりするなど、時代の流れや社会の変化に応じて人権保障を図るようになってきている。
 これを家に例えれば、一方で、本数は多くないが十分に家を支えることのできる土台や柱、はりが整っており、他方で、それらを傷つけない限り、間仕切りや床板を動かし取り換えることで、住んでいる人々が快適に生活していけるようにリフォーム、リノベーションが可能となっている。だからこそ、日本国憲法は長寿を保っているのではないだろうか。