そもそも19世紀末、朝鮮という国は清国の属国で完全なる独立国ではありませんでした。それを日本が日清戦争に勝利したことにより大韓帝国という独立国となったのです。それは日清講和条約(下関条約)の第一条「清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼などは永遠に廃止する」を見れば明らかです。

伊藤博文、李鴻章が会談した春帆楼2階大広間を再現した日清講和記念館
伊藤博文、李鴻章が会談した春帆楼2階大広間を再現した日清講和記念館
 日清戦争後、日本は清の冊封体制を脱し独立国となった朝鮮に対して自立を促しましたが、彼らはこともあろうか当時の日本にとって最大の脅威であるロシアの支配下に自ら進んで入ろうと、王宮ごとロシア公館に逃げ込むありさまで、その結果ロシアは朝鮮半島におけるさまざまな利権を手に入れ、次第に日本とロシアは朝鮮半島の主導権をめぐって対立するようになっていきました。

 満州だけではなく朝鮮半島がロシアの支配下に入れば「力のある白人国家が力のない有色人種国家を支配する」という当時の国際情勢に鑑みて、次に超大国ロシアに侵略されるのは弱小日本の番であることは火を見るより明らかですから、日本としては何とかそれを阻止しようと外交努力を重ねました。しかし当時、世界一の陸軍国といわれたロシアが弱小国日本に譲歩するはずもなく、日本は座して死を待つか、勝てる見込みは少なくとも打って出て戦うかという選択を迫られることになったのです。

 戦うことを選んだ日本は、局外中立を宣言していた大韓帝国の防衛および領域内での軍事行動を可能にするため日韓議定書を締結し、それに応えた進歩会などの大韓帝国改革派は鉄道施設などの工事に数万人を動員するなど日本に協力的でしたが、皇帝を中心とする守旧派の腰が定まらないため、外交案件に日本政府の意向が反映されるよう、さらに第一次日韓協約を結びました。

 ところが大韓帝国皇帝は、これに違反してロシアだけではなくフランス、アメリカ、イギリスに密使を送ったので、辛くもロシアに勝利した日本は後顧(こうこ)の憂いを絶つため「日本が大韓帝国の外交権を完全に掌握する」とする第二次日韓協約を締結しました。

 しかし、その後も大韓帝国皇帝はオランダのハーグで開催されていた第2回万国平和会議に密使を送るなど迷走を止めず、日本の国家安全保障に重大な脅威を与え続けました。(密使は、会議参加国から「大韓帝国の外交権が日本にある」ことなどを理由に門前払いにされています)

 日本は、この状態を放置して大韓帝国が植民地拡張政策を続ける欧米諸国の支配下に入れば再び日本は重大な危機に陥ると危機感を抱き、外交だけではなく内政も掌握するため、やむなく併合に踏み切ったのです。