ちなみに百田氏の社会的なイメージはいささか過度に誇張されて、その実体とかけ離れて独り歩きしている部分がある。例えば、百田氏の批判者側からみれば、彼の発言はヘイトスピーチまがいのものばかりに見えているかもしれない。だが、そのようなニュアンスのものがあったとしても、それは彼の全発言からいえば極めて例外的な「暴言」である。
作家の百田尚樹氏
作家の百田尚樹氏
 例えば、最近筆者が読んだ百田氏の発言に、『Voice』2017年5月号での、経済評論家の上念司氏との「トランプの核が落ちる日」という対談があった。対談では北朝鮮情勢を中心に、韓国、米国、中国、そして日本などの周辺国のパワーポリティックスに関して議論されている。地政学と経済学の両面を駆使して専門的に鮮やかに語る上念氏に対して、百田氏は各国の勢力均衡論的な見地に立ったごく普通の語りに徹していた。もちろんそこにはヘイトスピーチ的なものはまったくない。他の評論系の著作をいくつか読んでみたが、それらも特に過激なものはなかった。つまりはごく普通の今風の保守系論客のひとりでしかない。

 そして百田氏の「暴言」があったとして、ネットなどでは賛否あわせて自由に議論がなされているではないか。この賛否あわせての自由な議論こそが重要だ。もちろんTwitterでの発言を封殺しようとして、同社に抗議する人たちも目にする。あるいは感情的な誹謗(ひぼう)中傷を吐きかける人も多々目にする。これは個人的には正しい批判の仕方とは思えない。発言する場を奪う「圧殺勢力」だ。まさに一橋大の学生を襲ったものと同類であろう。

 百田氏の「虚像」に惑わされることなく、その意見を一度は丁寧に聞くべきだ。私のようにTwitter上でブロックされていてもだ。余談だが、実際に百田氏に会った知人たちはおしなべて彼の人柄の優しさを語っている。天下りあっせんを仕切っていた元官僚の「人格者ぶり」を、会ってもいない人たちが称賛する無責任な風潮もある。このような時流に抗する意味でも、百田氏がどのような人物であるのかを実際に知った方が、より深い人物評価を可能にし、学生側にも大きな恩恵があったかもしれない。それだけに残念なことだ。

 19世紀の偉大な啓蒙(けいもう)思想家のジョン・スチュアート・ミルは、古典的著作『自由論』の中で、規制されることのない言論の場こそが人々の満足(効用)を増加することができるとした。