清盛の母について記しているのは、源氏と平氏の攻防を描いた『平家物語』である。『平家物語』は大きく分けて、(1)語り系の諸本(一方(いちかた)流、八坂流など)、(2)読み本系の諸本(延慶本、長門本など)になる。そして、それぞれが清盛の母として記している女性は異なっている。『源平盛衰記』の説も合わせて、次に分類して掲出しておこう。

(1)白河法皇の寵愛(ちょうあい)した祇園女御(ぎおんにょうご)であったとするもの。
(2)祇園辺りにいたある女房とするもの。
(3)祇園女御に仕えた中臈(ちゅうろう)女房とするもの。
(4)祇園女御と中臈女房の区別が明確でないもの。
(5)宮人である兵衛佐局とするもの。

 このように、同じ『平家物語』であっても、それぞれの記載している内容に大きな差異を認めることができる。ところで、白河法皇の寵妃である祇園女御については、ほとんど知られていないが、いかなる人物なのであろうか。

 祇園女御は、両親や生没年が不明である。その出自に関しても、源仲宗の妻またはその子・惟清の妻であるとか、宮廷に仕えた女房との説がある。女御とは天皇の寝所に仕える職であるが、祇園女御は正式にその職に任じられておらず、居住した祇園にちなんで名乗っていたといわれている。

 このほかの史料では、平安末期の歴史書の一つ『今鏡』が清盛を白河法皇の御落胤とする説を繰り返し述べている。では、ほかに清盛出生の謎を探る史料はないのであろうか。次に、その点をもう少し掘り下げてみよう。

 明治26(1893)年、東京帝国大学文科大学(今の東京大学文学部)の教授を務めていた星野恒が、『仏舎利相承系図』を学界に初めて紹介している。そこには清盛の出生について、驚くべき内容が記されていた。ちなみに『仏舎利相承系図』とは、滋賀県多賀町の胡宮(このみや)神社が旧蔵していた史料である。

 『仏舎利相承系図』には、清盛の母という女房は、祇園女御の妹であったと記されている。そして、女房のことを説明する注記の個所では、「女房が白河法皇に召されて懐妊し、そのまま忠盛に嫁いで清盛を出生した」と書かれている。

 白河法皇は崩御の際に、釈迦の遺骨という仏舎利を祇園女御に譲った。譲りを受けた女御は女房の産んだ清盛を自分の猶子(ゆうし、養子)とし、さらに仏舎利を譲ったという。猶子とは、相続を目的としない親子関係のことである。『仏舎利相承系図』は文暦2(1235)年7月の段階で成立しており、この頃から清盛の御落胤説が流れていたのだ。

 『仏舎利相承系図』の記述は、根も葉もないことなのであろうか。これを補強する材料として、当時の公家日記である『中右記(ちゅうゆうき)』の記述が重要視されている。『中右記』は平安時代の公家・藤原宗忠(1062-1141)の日記で、当時の世相を知るうえで極めて重要な日記である。