では、『中右記』には、いかなることが記されているのであろうか。『中右記』保安元年7月12日条には、忠盛の妻が亡くなったとの記事がある。宗忠はこの妻について、「これ仙院の辺りなり」と説明を施している。

 仙院とは、上皇・法皇の御所または上皇・法皇のことを意味する。つまり、当時でいえば、白河法皇を意味するのは間違いない。その点を考慮すると、忠盛の妻が白河法皇に繋がる女性であった可能性が俄然(がぜん)高くなる。

 保安元年の時点において、忠盛は25歳で、清盛は3歳の幼子であった。決して年代的にも矛盾しない。また、『平家物語』の語り系の諸本では、忠盛が御所の女房と通じていたことが記されている。そのような理由から、清盛の母が白河法皇に仕えたことは、ほぼ間違いないと考えられる。

 このように、長らく清盛は白河法皇の落胤であり、皇胤であるとの説が流布してきた。明治以降、『仏舎利相承系図』という新たな史料の出現もあって、清盛御落胤説=皇胤説は補強され、揺るがぬものとなった感がある。では、星野恒以降、この説はいかに継承されたのであろうか。まずは、清盛御落胤説=皇胤説を肯定する立場から確認しよう。

 大正時代に入ると、東京帝国大学史料編纂(へんさん)所の和田英松は『仏舎利相承系図』を史実として受け入れ、さらに先の『中右記』を裏付けの証拠とした、さらに、当時、白河法皇の御落胤が実際に存在した事実、そして清盛が幼い頃から破格の待遇を受けていたことも理由とした。『仏舎利相承系図』の史料的価値を重視したのが特長である。
親と子の日本史 平清盛像(重文、六波羅蜜寺蔵)
平清盛像(重文、六波羅蜜寺蔵)
 
 和田英松が見解を述べて以降、歴史家を中心として、清盛御落胤説=皇胤説が受け入れられるようになった。特に、戦後になると、日本史の通史が数多く刊行されたが、肯定する説が大勢を占めたのである。むろん、全面的にというわけではないが、若干の疑問を呈しつつも肯定に傾いていったというのが近いであろう。

 清盛御落胤説=皇胤説が受け入れられる中で、これを疑問視する考え方も登場した。その中心となったのは、特に『平家物語』を研究する国文学者たちであった。彼らは、どのように考えていたのであろうか。

 清盛御落胤説=皇胤説を否定する人々の論拠とは、どのようなものだったのであろうか。代表的なものをいくつか紹介しておきたい。

 先述のとおり、『平家物語』(延慶本)は、清盛の母を祇園女御に仕えた中臈女房としている。この延慶本は『平家物語』の諸本の中で、もっとも古い形態を残すものである。したがって、より信憑(しんぴょう)性が高いのではないかと考えられている。