また、別の見解では、『仏舎利相承系図』に記されていた清盛御落胤説=皇胤説が13世紀初頭に広まっていたとし、それが『平家物語』が成立する際に強く影響を受けたと指摘する。清盛在世中は御落胤説=皇胤説の広まりを確認できないが、12世紀末頃から13世紀初頭にかけて流布したのであろう。

 『平家物語』(延慶本)は、清盛御落胤説=皇胤説の記事の最後の部分で「この事、信用に足らずという人もあるらしい」と記している。つまり、言外に清盛御落胤説=皇胤説は史実として認められず、作者による創作であることを匂わせているのである。こうして清盛御落胤説=皇胤説を否定したのである。

 ところが、近年では『仏舎利相承系図』の史料価値を疑問視し、当該期の史料から裏付けが得られないので、事実として疑わしいと断言する歴史家もあらわれた。同時に、清盛が御落胤であることは、将来の皇統を受け継ぐ可能性があることから、かえって反対勢力の監視にあって不利であったと指摘している。

 清盛が破格扱いを受けていたかという点についても、『今鏡』の記事をもとに疑問視している。白河法皇は清盛を昇殿可能な蔵人(くろうど、秘書役)にも任じることなく、これまでいわれたほど厚遇していないのである。ただし、平氏一門が白河法皇から厚遇され、清盛の出世が早かったのは事実である。そうでなければ、異例なまでの大出世はしなかったはずだ。

 以上のように、清盛が天皇の御落胤であるか否かについては、古くから歴史学者や国文学者によって論じられてきた。

日宋貿易で輸入された青磁の皿や壺が並ぶ特別展「清盛と日宋貿易」‖播磨町の県立考古博物館
日宋貿易で輸入された青磁の皿や壺が並ぶ特別展「清盛と日宋貿易」=播磨町の県立考古博物館
 結論からいえば、清盛の母は祇園女御の妹であった可能性が高いとされている。忠盛の父である正盛は、早くから祇園女御に仕えており、それは忠盛も同じであった。祇園女御に仕える中で、忠盛はその妹と結ばれ、清盛を産んだのである。ただ、清盛が御落胤であるか否かについては、まだ検討の余地があろう。

 清盛の御落胤説については決め手となる史料が乏しく、十分に確証を得られたわけではない。通常、歴史研究では同時代の古文書や日記などの一次史料が用いられ、後世に編纂された二次史料は価値が劣るので、証拠としての価値が劣る。ただ今後、清盛の出生にまつわる一次史料が出てくるとは、到底考えにくい。

 今後、状況証拠的な史料を収集・検討し、さらに議論を深める必要がある。清盛御落胤説は、いまだ謎といえるであろう。

 清盛は出自の問題もさることながらも、天皇家や摂関家と積極的に姻戚関係を結び、天皇を凌駕(りょうが)する権力を保持したのは確かなことである。