叔父たちのなかでも平良兼とその姻戚である前常陸大掾・源護の一族は、とりわけ激しく将門との間で抗争を繰り広げることになる(その原因は、将門の父の遺領をめぐるもののほかに、「女論」によるとも言われている)。

平国香の館跡とされる長光寺=茨城県筑西市
平国香の館跡とされる長光寺=茨城県筑西市
 この抗争は互いの一族を殺し合い、拠点となる集落を焼き払い合うなど凄惨を極めた。

 抗争のなかで将門は叔父の平国香を殺害し、それまでは(かつての将門のように)朝廷に出仕するため在京していた国香の息子・貞盛をも巻き込むこととなる。

 貞盛自身は将門との争いに消極的であったとも言われるが、将門が父の死後の所領支配をめぐって叔父たちとの争いに身を投じたように、父を将門に殺された貞盛もまた、一族との戦いへと駆られたことであろう。この貞盛が、後に藤原秀郷の協力を得て将門を討つことになるのである。

 先述のように、一族内部で所領をめぐる争いを繰り返すことは古代~中世の武士の特徴の一つであったが、このような抗争は、たとえ坂東の平氏やその姻族も含めた一族を広く巻き込んだものであっても「私戦」であり、それ自体は朝廷の追討(「公戦」)の対象とはならない。この時点では、誰も国家への反逆者ではないのである。

 しかし、敵対勢力を「朝廷に仇をなすもの」として訴え出てそれが受理されれば、朝廷による追討(「公戦」)が発動されることとなる。朝廷から追討使が派遣されれば、国司を含む近隣諸勢力の支援も得ながら、それに合流する形で戦いを優位に進めることもできる。そうすればより容易(たやす)く敵対勢力を駆逐することも可能になるのだ。そのため両陣営ともに、相手が国司の命令に従わないなどとして朝廷に訴え出るような工作を行っていたのである。

 このような経緯で発せられる朝廷からの追討命令は「私戦」の延長という色合いが強く、朝廷によって実施される追討(「公戦」)のなかには、こうした「私戦」的側面を持つものが少なくなかった。

 伯父・良兼や源護一族との抗争も将門優位で終息に向かっていた頃、武蔵国では別の争乱が勃発しつつあった。

 新任の武蔵権守・興世王と武蔵介・源経基が、武蔵国足立郡の郡司・武蔵武芝と諍(いさか)いを起こしたのである。将門は「武芝は自分の近親者ではなく、守・介(興世王・経基)も自分の兄弟ではないが、両者の紛争を鎮める」と称して武蔵国に出向き、武蔵国府において興世王と武芝を会見させることに成功した。両者による紛争を調停したのである(経基は京へ逃亡)。

 この当時、地方で発生した紛争とそれへの介入の実態は、同時期の史料からもうかがうことができる。

 寛平八年(896)の太政官符(朝廷の発する行政命令)には、地方における紛争の当事者双方がそれぞれ別々の貴族に訴え出ることで、もともとは地方で発生した紛争が、中央の貴族同士の対立という形に発展するという弊害が記録されている。

 また、延喜五年(905)の太政官符においては、中央の貴族が紛争を私的に裁定することを通じて、地方の人々を支配下に取り込んでゆく様子が描かれている。

 このように、地方における紛争の調停には中央の貴族も関与していたとみられる。いずれのケースにおいても、中央貴族より立場の弱い国司や郡司は地方におけるこうした違法行為を制止することができなかった。武蔵国における将門の調停行為も、これと同様のものと見てよい。また、坂東の平氏一族の抗争が将門優位で終息に向かうなか、坂東諸国にあって中央からの強力な政治的バックアップを受け、紛争の調停に当たることができたのは、おおよそ将門だけであったともいえよう。

 この興世王と武芝との調停を通じて将門は両者を従属させたとみられ、とりわけ興世王は、将門が後に坂東諸国を制圧した際にはその「宰人」(ブレーン)とも称された。みずからの政治的立場(中央との提携やその地域における広範な支配)を利用して、対立する二者間の紛争に介入し、いずれか(あるいは両者とも)を従属させるという行為もまた、古代~中世の武士の特徴である。