「八幡大菩薩」の使者と称する昌伎の託宣を受けた将門らは、貧者が冨を得たが如くに意気盛んとなり、将門自身は「新皇」を自称するに至ったというわけだが、つづいて朝廷に奏上も行った。

 この奏上には、これまでの一族間の「私戦」の経緯の説明と、常陸国衙襲撃において自らに罪はないとする弁明、坂東諸国を占領したことに関する開き直りとも取れる文言が並んでいた。しかしそれに続けて、将門は「傾国の謀」(国を危うくする陰謀)の片鱗を示したものの、その一方で主君である太政大臣藤原忠平への恩義も忘れていないとする文言も明記されている。勢いに任せて常陸・下野・上野の国府を占領したものの、この段階に至ってなお中央との連繋を重視しそれを維持しようとしていたのである。この奏上から“将門が坂東を独立国にしようとした”とった意図を読み取ることはできない。

 『将門記』に描かれる将門の「新皇」自称も、将門の指導的立場が坂東の諸勢力のなかで承認されたことを象徴する場面であった、とでも理解すべきであろう。坂東諸国の富豪層もそれぞれが各地で「私戦」の当事者であったとみられるが、朝廷との連繋が良い人物(この場合は将門)と結合することで利権の拡大を図りつつ、勢いに乗じた将門に味方することで、自らと競合する勢力の駆逐を目論んだ者も多かったのであろう。将門を滅ぼすのが同じく坂東にいた藤原秀郷であったように、この段階に至ってもなお将門とその支持勢力は、坂東全域を一元的に支配していたわけでもないのである。

 とはいえ、将門の勢いを恐れた坂東諸国の国司らは任国を捨てて逃亡し、将門は武蔵国・相模国なども次々と従え、実効支配の地域を拡大していった。

 同じ時期に西国では藤原純友による争乱も報告されており、朝廷ではそれぞれの対応に追われることとなった。

比叡山にある将門岩。平将門と藤原純友がここで語り合ったとの伝承が残る=京都市左京区のガーデンミュージアム比叡
比叡山にある将門岩。平将門と藤原純友がここで語り合ったとの伝承が残る=京都市左京区のガーデンミュージアム比叡
 純友に対してはひとまず懐柔策を取り、当面は将門追討を優先することが決まった。西国で藤原純友の乱が発生した上に、坂東数カ国の国司を追放したことは、もはや朝廷でも看過できなかったのであろう。

 しかし国司相手の紛争で訴えられても、中央との関係次第では罪から逃れられたというケースもあった。先述のように将門自身も一度は朝廷による調査の対象となったのだが、中央政界との連繋を活かしてその時には国家的な追討を回避している。また、たとえば将門の乱から百年ほど後、九州で国司との間で紛争を起こしながら、結局は大きな罪には問われなかった平季基の事例もある。坂東で平忠常が大規模な争乱を引き起こしたのとほぼ同時代のことである。

 長元二年(1029)、大宰府の役人であった平季基は大隅国の国司との間で紛争を起こし、国衙や国司の館などを襲撃して、大隅国から大宰府に訴えられた。その裁決が下る前に任期が切れてしまった大隅国司は、やがて直接朝廷に訴え出た。朝廷は事件について大宰府に問い合わせたが、平季基が大宰府の長官に賄賂を贈ってもみ消しを依頼したため、うやむやになっただけでなく、大隅国司が直接朝廷に訴えたのを越権行為であると称して、以後の調査を妨げようとした。それでも平季基は朝廷に召喚されてしまうが、やがて放免され、朝廷の高官には返礼ともみられる大量の贈り物を届けた(野口実『列島を翔ける平安武士 九州・京都・東国』吉川弘文館、2017年)。諸方への賄賂はそれなりの代償ともいえるが、追討を受けて滅ぼされることを考えれば…といったところか。

 このように、中央との関係を良好に保った上で巧みに立ち回れば、国司との間で紛争を起こしても国家的な追討を回避することもできたのである。