将門の乱への対応に戻ろう。諸社諸寺には将門調伏の祈祷が命ぜられた。また、以前に武蔵国における将門の行状を密告した源経基は、召し出されて従五位下に叙された。そして天慶三年(940)二月八日には、ついに参議・藤原忠文を征東大将軍とする追討使(単なる使者ではなく、追討を目的とする軍隊とその指揮官である)が進発した。

 将門自身はその間も関東にあって、従来敵対していた平貞盛や、それと結んだ藤原維幾の子・為憲らとの戦いを続けていた。やがて貞盛と為憲は下野国押領使藤原秀郷の協力を得て将門を攻撃した。この攻撃は京都を発った追討使が到着する前であったが、追討令が発せられた将門に味方する兵力は少なく、秀郷らとの戦いに敗れた将門は討ち取られ、将門の弟たちや興世王、藤原玄明らも誅殺された。

楊洲周延画「総州猿島内裏図」。藤原秀郷は平将門の館に招かれ、飛落するカモを眺めている(坂東郷土館ミューズ所蔵)
楊洲周延画「総州猿島内裏図」。藤原秀郷は平将門の館に招かれ、飛落するカモを眺めている(坂東郷土館ミューズ所蔵)
 ところで、この秀郷について当初は将門に同調していたというエピソードもある。将門は新皇と号した上で坂東諸国に自ら国司を任じ、さらには大軍を率いて京都へ攻め上り、日本国の主になると主張して秀郷も当初はその構想を感心して聞いたという。しかしその後、秀郷は将門の立居振舞や食事の様子などを見てその乱雑さに落胆し、やがて将門を討ったというのである。このエピソードは『俵藤太物語』に記されたものだが、物語自体は室町時代に成立したものだから、後世に創作された俗説であろう。

 最後の戦いでは、朝廷からの追討使派遣と時期を同じくして将門の勢力は減退したとみられる。これは、将門に味方していた勢力が朝廷からの追討対象となることを恐れて、随時離脱していったからであろう。勢いに乗じて坂東諸国の国府を占領していったが、そもそも国司は任国を平穏無事に運営し、所定の税を滞りなく中央に納めることが任務の第一であった。それを武力で追い出したうえで強引に支配しようとしたとしても、広い支持を集めることはできない。また、手段が強引であればあるほど、強い反発も招くことになる。

 この戦いで藤原秀郷という味方を得た貞盛と為憲は、以前から将門や玄明らと敵対する勢力であった。つまり、将門の乱は「私戦」の延長線上で「公戦」と認定されつつも、最後はやはり「私戦」の延長線上で決着がついたのである。

 以上が、平将門の乱と呼ばれる争乱の概要である。この争乱の経緯は坂東において幾重にも交錯した凄惨な抗争(「私戦」)が主軸であり、それ自体は朝廷の支配を揺るがすようなものではない。「新皇」を称した将門も、拠って立つ基盤は中央の貴族や国司との結合にあり、地方において朝廷の権威を背景に活動する勢力の一つであった。国府襲撃という事件を起こさなければ、将門は国家的軍事・警察権の担い手として朝廷や貴族から重用されていたかもしれないのだ(その可能性はあった)。

 将門の“独立”について、たとえていえば、新たな起業を目指したもののように思われるかもしれない。だが実際には、新たな組合の設立を目指したようなものであって、しかもそれは近隣の支持も失った上で潰されてしまったのである。

 将門を支持した富豪層も、程度の差はあれど将門のように朝廷の権威に依存する存在であって、その転覆など考えることはできない。彼らは現行の体制を承認しつつ、そのなかで自らの利益の拡大を図るに過ぎないからだ。自らの利益にかなえば将門にも味方するし、利益に反するようなら一度は味方しても易々(やすやす)と離脱するような“支持者”たちなのである。