将門を討った秀郷には従四位下、貞盛には従五位下の位が与えられ、彼らの子孫はやがて武士の家として発展を遂げることとなる。

平貞盛…伊勢平氏(平家政権を立てた清盛などを輩出)、北条などの祖。

藤原秀郷…小山・結城・長沼、波多野、山内首藤、平泉藤原氏、佐藤(歌人の西行を輩出)、後藤などの祖。

平良文…千葉・上総、秩父平氏(畠山・小山田など)、三浦、大庭・梶原などの祖。

藤原為憲…伊東・工藤、二階堂などの祖。

 中世は「武者ノヨ」(慈円『愚管抄』)といわれるほど、武士がめざましく社会進出を果たしたことが大きな特徴の時代であった。それ以前の、たとえば将門の乱前後の時代にも武勇に優れた人物を追討使に任じたり、京都の警固(けいご)に徴発したりする事例はみられる。しかしこれらはいずれも突発・散発的な事例に留まり、彼らが恒常的に起用されるというようなことはほとんどなかった。

 ところが時代も下って院政期になると、皇統の対立や、寺社強訴の頻発などにより、自らの皇統を武力によってより強固に守護する必要に迫られた院による軍事動員が恒常化する。そのときに麾下(きか)の武力として編成された伊勢平氏や河内源氏などのなかには、将門の乱に関わった人々の子孫で武士の家として発展を遂げた者も含まれていた。また、各地に設置された荘園を預かる下司(げし)などにも、諸国の国衙(こくが)在庁を務めていたような武士が起用されるようになり、荘園領主(院や貴族、寺社)らとの関係をそれぞれ独自に展開するようになっていく。

 このように、中世における武士の社会進出は彼らが得意とする武芸を活かした奉仕を中心としたものであった。しかし一方では、ほかの貴族たちのようにさまざまな経済奉仕(荘園寄進の仲介、造寺・造塔・造仏、院知行国の運営実務)も行っていたのである。このことは、武士の政権といわれる鎌倉幕府が成立したあとでも例外ではない。

 鎌倉幕府は、内裏や院御所などの警備のほか、その造営の費用を御家人らに賦課するなどして積極的に協力しており、それが彼らの主たるアイデンティティーとなっていたのである(「武芸をこととなし、朝廷を警衛せしめたまわば、関東長久の基たるべし(武芸に専念し、朝廷を警備することが鎌倉幕府の繁栄にも繋がるのだ)」『吾妻鏡』承元三年(1209)十一月七日条)。

 将門の活動にもその端緒がうかがえたように、中世社会における武士は朝廷の権威を相対化して「私戦」を繰り返す側面をもつ一方で、そのさまざまな活動を展開する上で朝廷の権威に依存する側面もあるというように、背反する特徴を併せ持っていたのである。武士が天皇や貴族、寺社勢力などと対立し合うといった単純な評価のみでは、中世における武士の存在形態を考えることはできない。まして、将門の乱の舞台となった坂東の“自立性”を過度に重視することはできない。

 将門の乱や源頼朝の挙兵という事実をもって坂東の「独立」を過度に重視する風潮が顕著であるが、現代人の価値観に左右されることなく、その当時の状況を冷静に分析し、評価を下すことが重要である。


〈参考文献〉
岩井市史編さん委員会編『新装版 平将門資料集―付・藤原純友資料』新人物往来社、2002年
川尻秋生編『将門記を読む』吉川弘文館、2009年。
寺内浩「平安時代中期の地方軍制」『古代文化』62-4、2011年3月。
野口実『源氏と坂東武士』吉川弘文館、2007年。
野口実『列島を翔ける平安武士 九州・京都・東国』吉川弘文館、2017年
樋口州男『将門伝説の歴史』吉川弘文館、2015年
元木泰雄『武士の成立』吉川弘文館、1994年。
森公章『古代豪族と武士の誕生』吉川弘文館、2012年。