ところが、今回の事件は民主主義の大原則である「言論の自由」にかかわる大問題にもかかわらず、ほとんどの大手マスコミが報じていません。(中には批判にあたらない報道を続けている人たちがいることは重々承知しておりますが、今回はあえて「マスコミ」とひとくくりにして話をします)。どういう理由で彼らが暗闘(だんまり)を決め込んでいるのかは分かりませんが、おそらく被害者が百田氏でなければ大々的に報じたであろうということは、前述した櫻井よしこ氏の講演会が中止になったときと、柳美里氏のサイン会が右翼を名乗る男の脅迫電話により中止になったときのマスコミ各社の報道姿勢の違いを比べて見れば容易に想像できます。

 つまり、彼らの「言論の自由」には守るべきものと守ってはいけないものの二種類があり、それを彼らが事件ごと恣意(しい)的に判断しているのです。彼らが最もダメなのは自分たちに都合の悪い事実を報じないところです。情報源をマスコミに依存している人たちにとって、事件が報じられないということは、その事件は発生していないのと同じことになり、その結果、その人たちの「知る権利」は奪われ、さまざまな不利益を被ることになります。

 仮に百田氏と反対の意見を持つのであれば、それは堂々と主張すべきであり、「一橋大の学生はレイシストと戦って大学の自由を守った」と報道すればよいだけの話なのですが、彼らは「公平中立」を装うためにそうはしません。テレビは放送法があるので建前上そうはいきませんが、完全中立な報道など不可能に近いのですから、日本の新聞も公平中立を謳(うた)うのではなく、他国のように各社の主張をもっと前面に出すべきではないでしょうか。一見、公平中立を装い、「編集権の自由」や「報道しない自由」を駆使して、自分たちの主張に沿わない事実を報道しないことにより、国民の知る権利を阻害し、自分たちに都合の良い情報だけを流すのではなく、思想的に偏っているのであれば偏っていると正直に言うべきで、それを言わないのは卑怯(ひきょう)です。昔であればいざ知らず、今はインターネットがあるのでマスコミの嘘はすぐばれます。もうマスコミが情報を独占していた時代は終わったのです。そのことに気がつかない、気がついても改善しようとしないマスコミは、これからも凋落していくことでしょう。

 いずれにしても今回の事件は、まごうことなき「言論封殺」であり、言論の自由に対する挑戦です。大学はこれに屈するのであれば「学問の自由」や「大学自治」を、この事件を無視するメディアは「知る権利」を、これに異を唱えない言論人は「言論の自由」を、いくら主張しても説得力なんかありません。