「ヘイト」の下品な暴力

新聞、テレビの上品な暴力


 さて、「ヘイト・スピーチ」という概念ですが、これをただ「ヘイト(憎悪)」的だからという理由だけで「悪」と考えるのは、思考停止だと私は思います。いかに下品だろうと、そうするだけの根拠が同時にきちんと示されていれば、その主張には耳を傾けるべきです。こんなひどい相手は潰すしかなく、相手を潰すのに有効だと思える時には「ヘイト」もありです。ただし、戦術的に見てそうしないほうが得策だという判断が成り立つ場合は避けたほうがいいでしょう。上品ぶるのもまた一つの手です。現に、言論機関という社会権力を手にしているマスメディアは、上品で穏やかに見える「言論」という手段によって、じつは底知れないほどの大きな暴力をふるっていることがあります(例:朝日新聞)。

 そういう可能性があることを、今回の在特会問題を書きたててきた反日メディアの記者たちが自覚しているとはとうてい思えません。ヘイト・スピーチ規制を議案として取り上げようという機運が起きた時に、自民党の一部に、国会前の左翼デモ(反原発や反集団的自衛権)もその対象にしようという動きがあり、反日メディアはそれをとんでもないこととしてごうごうと非難しました。さて、私はこの件に関して別に自民党や在特会の肩を持つわけではないけれど、左翼デモの叫びや左翼議員の野次などのなかにもけっこうヘイト・スピーチに属するとみなせるようなたぐいがあるのは事実ではないでしょうか。

 ところで、なるべく暴力は振るわないほうがいいというのは、文明生活の共通了解になっていて、その了解が公式的には無条件に正しいとされているために、今度はその了解の範囲内で、口汚い罵りはよくないということになりました。だんだんお上品で紳士的になっていくのが文明社会の建前のようです。それはそれでまあ結構なことですが、こういうことがあるのです。

 公式の表現がお上品で紳士的になっていくと、単に表現の形式がそうなっていくだけではなくて、その内容にも変化がもたらされます。言葉が抽象的になり、玉虫色になり、八方美人的になり、衛生無害になり、優等生的になっていく。結局、本音はますます引っ込んできれいごとばかり言うようになる。国際舞台での首脳会談などにはそれを感じさせるものが多いですね。あれはもちろん、背後に周到な戦略を隠している場合が多いのですが、聞かされる方は、言葉だけをとらえてもただのきれいごとを並べているとしか思えません。微妙なニュアンスをかぎつけつつ他の情報もできるだけ動員してその本音を憶測するほかないのです。

 たとえば、政治家のちょっとした失言が大げさに問題にされて辞任にまで追い込まれます。私自身も、あれは戦術上拙いなと思うことがよくあります。しかし、人は気づいているでしょうが、政治家の失言には、たいてい正直な本音が出ています。そうしてけっこう本当のことを言っていることが多いのです。ヘイト・スピーチがそれと同じだとは言いませんが、公式的な言論が持つ無意識の抑圧性に対するガス抜きの意味を持っているという点では共通しています。

 在特会の人たちはおそらく、韓国政府や在日団体の言い分なら何でも聞いてしまう戦後日本の自虐性に苛立っているのでしょう。この自虐性は左翼だけではなく、保守政治家やマスメディア、行政担当者、要するに権力を持っている人たちにも共通している。だからこそ苛立ちはいよいよエスカレートする。その苛立ちが「ヘイト・スピーチ」として現れる――これは心情としては理解できるところがあります。権力者たちが取り澄まして隠している下半身を露出させた。そういう問題提起の意味がこの団体にはあったと思います。