筆者はちょうど鹿取GMと同じ年齢だから、巨人に入る前からの活躍も見ている。江川卓投手を中心に一世を風靡(ふうび)した法政大の黄金世代のひとつ下。明治大に入った鹿取は、3年生になるとリーグ戦で活躍。しかし、スター軍団の法政大には勝てなかった。4年になって、同期の高橋三千丈投手と両輪でリーグ戦優勝を果たす。

巨人の鹿取義隆選手(当時)=1989年8月、東京ドーム
巨人の鹿取義隆選手(当時)=1989年8月、東京ドーム
 大学時代の鹿取を神宮球場で見たことがある。174センチと小柄、驚くような球速でもなかったから、まさかその後、プロ野球で活躍するとは想像しなかった。

 改めて鹿取のたどって来た道のりを振り返ると、鹿取義隆は「根性の人」であり、「強運の人」でもある。鹿取は明大卒業後、社会人野球の日本鋼管(当時)に入る予定だったという。同僚の高橋三千丈投手は当然のように、ドラフト1位指名を受け、中日に入った。そのドラフト会議で、鹿取の名前は呼ばれていない。プロ野球との縁がつながったのは、ドラフト会議の後だった。

 その年のドラフト会議は、いわゆる「江川事件」のために巨人がドラフトをボイコットし、参加しなかった。その巨人がドラフト指名洩れ選手に直接入団交渉をした。その中のひとりが鹿取だった。西本聖の「テスト入団」が有名だが、同期の鹿取もまた「ドラフト外」での入団だった。

 当時の巨人には、少しタイプは違うが、サイドハンドの小林繁投手がいた。鹿取にとっては同タイプの先輩。この小林を越えなければ出場の機会は増えないと見る向きもあったが、江川事件の余波で小林繁が阪神に移籍。「サイドハンド枠」がポッカリ空く形となって、鹿取は1年目から一軍登板の機会に恵まれ、期待に応えている。開幕戦に救援登板、計38試合に登板して3勝の成績は、新人の一軍出場の敷居が高かった当時の巨人にあっては上々の1年目と言えるだろう。その意味で、鹿取GMの持つ強運に期待、というところだろうか。

 就任発表の記者会見で、鹿取GMは低迷の理由を分析しつつ、「若い選手がなかなか出てこなかった、ということがある。いいスカウティングをして、そこから育てていきたい」と語った。

 これを読んで、どう思うだろう? 「GMの就任の言葉ではない」と私は感じた。選手出身者はどうしても「育てる」意識が強い。これはコーチか育成部長の言葉であって、GMの思考ではない。

 GMは活躍できる選手、活躍させる監督・コーチをそろえるのが仕事だ。将来の成長も見越して選手を獲得するの当然だが、それは二番目であって、今日試合を見に行くファンを満足させるチーム編成を「いますぐ実現する」切迫感、使命感が感じられない。

 日本でも『マネー・ボール』のタイトルで有名になった著書を出版し、ブラッド・ピット主演で映画化もされたオークランド・アスレチックスのビリー・ビーンGM(現上級副社長)は、本にも書かれているとおり、通常の野球観をひっくり返す策を講じて、予算の少ないアスレチックスに生きる道をもたらした。ビリー・ビーンは試合が始まるとトレーニング・ルームにこもり、試合を見ない。データだけで選手を判断する。かえってその方が冷徹な人事を断行できる、というビーンならでは発想。それくらいの大胆さ、斬新さが、「GM」という立場には求められている。そういう勉強や鍛錬を果たして鹿取新GMは積み上げて来たのだろうか?

 「全国区」を売り物にしてきた巨人は、地元密着の流れの中で、ファンとの強い結びつきを失いかけている。実は成績以上に、ここに深刻な課題がある。鹿取GMが、グラウンド上にどんな魅力を配置できるか。相当な発想転換を持って取り組んでほしいと願っている。