読者の皆さんには、言い訳に聞こえるかもしれないが、医師は誤診する。特に早期の乳がんの診断は難しい。早期がんを画像診断や生検で正常と判断してしまうことは珍しくない。重要なことは、最初の医師が見落としてしまった乳がんを拾い上げるシステムである。この点において、最近、南相馬市立総合病院の尾崎章彦医師らが興味深い研究を英国の医学誌『BMC Cancer』に報告した。
 尾崎医師は乳がんを専門とする外科医だ。2010年に東大医学部を卒業し、千葉県旭市、福島県会津若松市で研修を終え、3年前から南相馬市立総合病院に勤務している。

 南相馬で診療を続けるうちに、「病状が進み、手遅れになってから来る患者が多い」と感じるようになったそうだ。特に独居の人が目立ったという。

 彼は南相馬市立総合病院で保存されている病歴を用いてこの仮説を検証した。その結果は衝撃的だった。

 2005年から震災までに乳がんと診断された122人の患者と比較し、震災から2016年3月までに乳がんと診断された97人の患者では、腫瘤(しゅりゅう)など乳がんの所見を自覚してから病院を受診するまでに3カ月以上を要した人の割合が1・66倍も高かった。さらに、12カ月以上受診が遅れた患者の割合は4・49倍も増えていた。いずれも統計的に有意な水準である。尾崎医師の予想通り、進行がんに成って受診する患者の割合は増加していた。

 では、どんな患者が危険なのだろう。これも尾崎医師の予想通りだった。12カ月以上治療開始が遅れた患者18人のうち、子供と同居していたのはわずかに4人だった。症状自覚から12カ月以内に治療を開始した79人では、42人が子供と同居していた。家族、特に子供との同居が病院受診に影響したことになる。

 このような反応は心理学の世界では「正常性バイアス」と呼ばれる。不都合な事態に直面すると、人はそのことを過小評価しがちになるのは万人に共通する傾向だ。東日本大震災で津波警報が出ても避難しなかった人がいたり、沈没船から脱出せずに溺死する人が多いのは、この機序(きじょ)によると考えられている。