2014年10月、楽天ジャパンOP
男子シングルス2回戦でエアKを放つ錦織圭
=東京・有明テニスの森公園(撮影・中鉢久美子).
 錦織と芝生の相性を考えたとき、ふと野球のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の光景が目に浮かんだ。侍ジャパンの菊池涼介二塁手(広島)は、人工芝で行われた1次ラウンド、2次ラウンドで素晴らしい守備を繰り返し披露した。従来の野手の動きとは少し違う、人工芝の特性を生かした身体のこなし、切り返しだと私は感じた。表面が土や芝だったらできない動きを菊池は開発し、駆使していると感じたのだ。それが、準決勝では痛恨のエラーをした。下は天然芝だった。予想外の打球の伸び、はね方に対応できなかった。広島は普段から天然芝の球場が本拠だから慣れてはいるはずだが、メジャーリーガーの鋭い打球を芝で捕る経験は少ない。その切り替えがうまくできなかったための失策のように見えた。そして何より、野手の技術や動きの基本が、もはや人工芝を前提に培われている事実に気づいて感嘆した。

 テニスも同様だろう。打ち方、フットワークの基本は、かつては芝を前提にしていた。いまはハードコートが前提だ。ボールを捉えて打つ間合いやテンポが全然違う。錦織はショットを打つのに止まらない。フットワークとショットはほぼ一体だ。その当たり前のリズムが芝によって制約され、ズレが生じる。バウンドも低いため、いつもの高い態勢で打つことができない場合が多い。そのずれの中で故障が生まれる。

 いまスポーツは、伝統と近代のはざまで実は難しい状況にあるとも言えるのだろう。ウィンブルドンは伝統を誇る大会で、賞金も高く、決して軽視できない大会だ。しかし、その舞台は時代の主流とは大きくかけ離れた芝生。陸上でいえば、土のトラックで100メートル競走を行うようなもの。ゴルフで言えば、木製ウッド全盛期にはやったパーシモン(柿)のクラブですべて打つよう制約されているのに近いかもしれない。時代とのズレが、伝統の重さという名で強要されているウィンブルドンを、以前のように世界最高峰を決める大会と認識し続けることを少し見直すべきなのかもしれない。

 ボールの高さ、ショットの間合い、この当たり前の感覚を調整するのは、われわれが思うよりずっと難しいだろう。芝生に合わせるのか、芝生でもいつものリズムで打つ感覚で調整するのか。態勢を低くするのか、あまり低くせず、スイングの角度で対応するのか。

 錦織圭のウィンブルドンはまず、足元を克服し、足元を意識せずにプレーできるかどうかにかかっている。