今でも家庭や学校では、「怪しい人に気をつけて」「知らない人にはついていかない」というように、子供たちを「人」に注目させている。しかし、こうした教え方では、「親切そうな人」「知っている人」が犯す誘拐は防げない。

 私は時々、小学校で授業を行っているが、子供たちに「どんな人が不審者なのか」と聞くと、「サングラスやマスクをしている人」という答えが返ってくる。しかし、そうした姿の誘拐犯は聞いたことがない。こんな教育をしているから、子供は「サングラスやマスクをしていない人」についていく。実際、宮崎勤事件も、神戸連続児童殺傷事件も、奈良女児誘拐殺害事件も、だまされて連れ去られたケースだ。結局、外見だけでは、犯罪をたくらむ者を特定するのは不可能に近い。

 それでも、無理やり不審者を探そうとすれば、平均的な日本人と外見上の特徴が異なる人を不審者とみなすことになる。過去にも、外国人、ホームレス、知的障害者が不審者扱いされ、人権が脅かされることがあった。

ベトナム国籍女児遺体遺棄事件を受けて、保護者に付き添われ、集団登校する児童=4月17日、千葉県松戸市
ベトナム国籍女児遺体遺棄事件を受けて、保護者に付き添われ、
集団登校する児童=4月17日、千葉県松戸市
 さらに、疑心暗鬼になればなるほど誰でも怪しく見えてきて、子供たちは人間不信に陥る。子供は大人を怖がり、大人から離れていき、助けてくれる大人も拒否するようになる。一方、地域住民も自分が不審者扱いされたくないので、子供から離れていき、見て見ぬふりをするようになる。

 このように、「人」に注意するやり方は、防犯面での教育効果がないだけでなく、地域の絆を切断し、犯罪者に狙われやすい環境を作り出してしまう。要するに、防犯の分野に犯罪原因論を持ち込んだ「ボタンのかけ違い」は、「百害あって一利なし」なのだ。

 これに対し、犯罪機会論は「人」には興味を持たない。犯罪者が「知っている人」だろうが、誰だろうが、犯行パターンには共通点があり、その共通点を抽出することに犯罪機会論は興味を示す。

 その共通点を一言で表すと、犯罪者は景色を見て、そこが「入りやすく見えにくい場所」だと判断すれば犯行を始めるが、そこが「入りにくく見えやすい場所」だと判断すれば犯行をあきらめる、ということだ。

 「入りやすい場所」とは、だれもが簡単にターゲットに近づけて、そこから簡単に出られる場所である。そこなら、怪しまれずに近づくことができ、すぐに逃げることもできる。「見えにくい場所」とは、だれの目から見ても、そこでの様子をつかむことが難しい場所である。そこでは、余裕綽々(しゃくしゃく)で犯行を準備することができ、犯行そのものも目撃されない可能性が高い。