こうした法制度や自律的な取り組みには、戦時中、政府・軍による厳格な言論統制に対し、新聞各社が当局に迎合し、自主検閲の愚行に陥った反省がある。当時は各社が、当局の検閲方針にかなうよう報道の事前審査部門を社内に設立し、事実上の自主検閲を行った。発刊停止や新聞紙の配給停止による制裁によって、経営が成り立たなくなることを恐れた自己保身の結果である。戦時中、当局の検閲に抵抗し、発刊停止となった新聞は1社もない。

委員会で答弁する前川喜平・前文部科学事務次官=2017年7月、国会・参院第1委員会室(斎藤良雄撮影)
委員会で答弁する前川喜平・前文部科学事務次官=2017年7月、国会・参院第1委員会室(斎藤良雄撮影)
 時代背景は異なるが、現在の読売新聞における事なかれ体質は、ちょうどこうした自己規制のメカニズムと重なる。経営の保守主義は、報道姿勢、さらには論調の保守主義につながる。その延長線上に、前川喜平・前文部科学事務次官に関する読売新聞の「出会い系バー」報道と、その批判にこたえ、逆に火に油を注いだ社会部長名の釈明記事がある。

 権力に迎合し、真実の追求を妨げる報道に加担し、しかも臆面もないその態度は、読者不在の事大主義が凝縮されたものだ。政治の迷走から生まれた安倍首相の独り勝ち現象と、寡占体制下の部数至上主義を堅持する読売新聞の事大主義は、自由や多様性を排除し、不公正な寡占状態を維持する点でつながっている。

 ゆがめられた新聞市場が機能不全を起こせば、報道の自由も国民の知る権利も絵に描いた餅でしかない。自由がないがしろにされ、真実が隠蔽された時代の反省から、戦後の日本メディアはスタートした。時計の針を逆戻りさせるような事態に対し、危機感を抱かずにはおられない。

 最後に、こうした現状を招いた責任を1人の政治家や新聞社1社に押し付けても、何も変わらないことを注意喚起したい。歴史的経緯を振り返れば、日本の社会全体が反省を迫られていることは明らかだ。

 「新聞に書いてある」の殺し文句は、読者の側にも、独立した精神を欠いた事なかれ主義や事大主義が潜在していることを暗示する。いくら読売バッシングをしても、ストレス発散で終わるしかない。読売問題の中に社会の投影を写し見る理性的な思考こそが求められている。

 7月12日、61歳で亡くなった中国のノーベル平和賞受賞者、劉暁波氏はこう言い残している。

「歴史に対して責任を負うことにおいて最も重要なのは、ただ他人を責めるだけではなく、自己反省をすることである」

 この言葉を肝に銘じることが、彼に対する真の弔いとなる。