まず第1に、研究者の利権がある。廃棄物の危険性が高まるほど研究費がつき、高いコンピューターなどを導入できる。特に1万年、10万年貯蔵するなどを考えると、その研究は膨大なものになるからだ。

 第2の中央官庁の存在がある。廃棄物が危険なほど規制強化は不可欠であり、厳しい許認可を必要とするので権限が増え、天下り先が増える。
東京・霞が関の経済産業省合同庁舎(前川純一郎撮影)
東京・霞が関の経済産業省合同庁舎(前川純一郎撮影)
 第3に地方自治体だ。これも危険であればあるほど、交付金などを受けることができるのでうまみは大きい。政治家も口利きなどで働けるので、票集めにも政治資金的にも望ましい。

 そして、最後に挙げられるのが建設関係者だ。機械、電気、土建など幅広い分野で大量の受注が見込まれるし、危険性が高ければ相応の技術力も求められるので、力のある企業にとってはいいことばかりだ。

 このように、原発の核廃棄物は危険性が低いのに「危険だ」と強調することは関係者にとって素晴らしいことなのだ。しかも、核廃棄物は絶対量が少ないので、大変だといってもあふれかえることはない。廃棄される核燃料棒はすでに130万本ほどあり、さらに200万本に近づこうとしている。それでも、狭い日本の国土に正式な貯蔵施設ではない場所に置かれても目立たない。

 廃棄物はそれほど危険ではないという論文が専門学会の論文賞候補になるぐらいなのに、危険性が強調され、今度のように「処分に必要な場所のマップ」がお役所から出てくると、まるで「裸の王様」の話を思い出す。ただ、現在の日本は「科学技術立国」と言いながら、多くの事柄がこのような科学的合理性に欠け、情緒的にとらえられており、それは決して日本のためにはならない。

 原子力の専門家は十分議論をして、「核廃棄物は原発よりずっと安全だ」というコンセンサスを作り、はやく「トイレのない産業」の状態から脱すべきである。またメディアも当たり障りのないことだけを報じるのではなく、利権に触れた報道が必要である。

(注)核廃棄物の世界は利権が中心となっているので、「処分」という言葉は使っていけないなど用語などの縛りが強い。本論は純科学的な記載に徹して、行政的、利権的用語の使用方法は採用していない。