意図された混同


 さて、多少細かいところまで事態の推移と政権の反応を振り返ったのは、米国政治の現在の雰囲気を共有するためです。今般の問題について、少なくとも白人至上主義やネオナチ運動が悪であり、批判されるべきものであるという点は、米国社会のコンセンサスです。大統領の発言の字面を見る限り、トランプ氏自身もこの点には同意しています。

 したがって、大統領への批判の中心にあるのは、トランプ氏が拘ったどっちもどっち論と言うことになります。思うに、このどっちもどっち論は、①現在の差別主義者への態度、②歴史を現在の価値観で裁くことの是非、そして、③法と秩序を維持する責任、の3点についての混同があります。

 政権の言動を見る限り、私には、これが意図された混同であったように思えます。それは、政治の正義としても、政権の戦術としてもいかにもまずいものでした。

 第一の論点として、当たり前ですが、白人至上主義やネオナチなどの差別主義者に対して、曖昧さは許容されません。それは、米国政治においてもそうだし、すべての文明国においてそうでしょう。カギ十字の旗や、松明を掲げて行進する集団が醸し出すイメージはあまりにセンセーショナルであり、米国社会では、全否定以外の選択はあり得ないという強い感情を喚起します。

 第二の論点が、歴史を現在の価値観で裁くことの是非です。南北戦争における南軍に関わる銅像やレリーフを、人種差別の象徴と捉えるのか、南部のヘリテージ(≒歴史的伝統、遺産)と捉えるのかという論点は、より多様な立場があり得るでしょう。
米アトランタ郊外にあるストーン・マウンテン。世界最大の一枚岩の花崗岩には南北戦争当時、リー将軍ら南軍の司令官3人が彫られている
米アトランタ郊外にあるストーン・マウンテン。世界最大の一枚岩の花崗岩には南北戦争当時、リー将軍ら南軍の司令官3人が彫られている
 だからこそ、トランプ氏は、反人種差別の価値観を理由としてリー将軍の銅像を撤去するならば、ワシントンやジェファソンなど奴隷所有者であった歴代大統領をも断罪すべきなのかと問題提起を行っているのです。アメリカの歴史にとって、建国の父である人物と、国の解体を目論んだ将軍を同列に比較することは暴論でしょう。ただ、安易な歴史糾弾論に違和感がある有権者は多いし、これはより幅広い穏健な保守層までを取り込める論点ではあります。

 少々乱暴であることは承知の上で、日本の歴史に置き換えてみると分かりやすいかもしれません。例えば、維新の元勲の筆頭であった西郷隆盛は、現在の価値観で捉えれば征韓論を唱えた植民地主義者であり、西南戦争で政府への反乱を主導しました。自害せずに、時の政府に捕らえられたならば、当然、国家反逆の罪に問われたであろう、罪人です。けれど、日本人の大半は上野の西郷さんの銅像を引き倒そうとは夢にも思わないでしょう。西郷さんの存在に多面性があるように、歴史には多面性があるのが普通だから。それを現代の一つの価値観に基づいて裁くことはいつだって論争的なのです。

 混同された論点の第三は、法と秩序を維持することの責任という点。行政府の最高責任者として、大統領が法と秩序の守り手であるのは事実です。しかも、トランプ氏は保守層の支持を得るために、不法移民対策にせよ、テロ対策にせよ、法と秩序を前面に出した選挙戦を戦って大統領職を得ました。それは、ニクソンやレーガンなどの歴代の共和党出身の大統領が共通して採用してきた戦略でもあります。

 特に、ニクソン大統領はベトナム反戦運動が激しくなり、一部で暴徒化していた60年代後半にあって、(多くは左派の)デモ隊と、サイレント・マジョリティー(≒穏健で物静かな多数派)を区分けすることに成功しました。ニクソン大統領については、ウォーターゲート事件を受けて辞任した不人気な大統領というイメージが強いですが、少なくとも法と秩序を前面に出す政治戦略は大成功し、同氏は圧倒的な人気で再選されたことを忘れてはいけません。

 ただ、シャーロッツビルの事件において、法と秩序をめぐる同様の構造が成立しないのは、法と秩序を壊している側が極右の差別主義者であったということです。法に反して暴力を振るっている側に同情して、法と秩序論を主張しても全く説得力がありません。トランプ氏は、反差別のカウンター・デモ隊の側にも暴力があったことを強調してその構造を作ろうと試みましたが、無理筋だったというべきでしょう。