爆発は「太陽より明るかった」とする閃光と大きな衝撃波をもたらした。現地では夜が明けたばかり。学校はすでに授業が始まり、会社員やOLらが職場へと急ぎ、通りでバスを待っていたり、車を運転したりしていた。

 最初に街を襲ったのは閃光。その後、ドーンという爆発音がやってきた。
ロシア南部のチェリャビンスク市街
ロシア南部のチェリャビンスク市街
 爆心地はチェリャビンスク南方のエマンジェリンスク付近とされ、この地域では一瞬、空が真っ白になった。まばゆい光は、直視した人が目を背けても、残光がまぶたに残るほどで、チェリャビンスクから750キロ西のサマラ州でも目撃されていた。

 爆発の後、青空のキャンパスに白い隕石雲の筋が描かれた。旅客機が通った後の軌跡のような「飛行機雲」だった。瞬間、多くの人が「旅客機が空中爆発した」と思った。

 人々は何だろうと思って、雲の方向をみつめていた。それから2~3分後、強烈な衝撃波がやってきた。

 衝撃波による被害者には子供たちが多い。それは、このタイムラグが一つの要因ではないかと指摘されている。光の方向を見た子供たちが窓のそばへと寄ったとき、衝撃波で窓ガラスが割れ、その破片が顔や手足に飛び散ってきたのである。そして、パニックになって、校舎から逃げるときに切り傷を負った。

 外にいた人はあまりにも強い風で転んだ人もいた。そして、旅客機の機長と同じように熱波を受け取った。当時の気温はマイナス15度ほど。あるOLは「お風呂の蒸気のようだった」と語った。温度計を見ていた男性運転手は、外気が一瞬で10度もあがり、マイナス5度ほどになったとも言っている。「花火の後のような臭いがした」という証言もあった。

 この衝撃波により、人々の頭に浮かんだのが「爆弾の爆発」だった。

 チェリャビンスク州はソ連時代から、核開発関連の軍需産業拠点であり、部外者の立ち入りを禁止する閉鎖都市の一群があった。存在が秘密であるがゆえ、街の名前にはコードネームが使われた。

 1957年、「チェリャビンスク65」と呼ばれ、現在はオジョルスクと改名された街で、プルトニウム製造工場が爆発した。放射能汚染により人体被害が広がったが、真実が明らかになったのはソ連崩壊後のこと。いま、放射線値に異常はないがその恐怖は人々の脳裏に染みついている。

 会社を定年退職し、悠々自適の生活を送るサーシャは衝撃波がやってきた時、自宅にいた。サーシャは昔の記憶を思い出し、「核爆発があったのかもしれない」と思った。