天文20年(1551)、信長は数えで18歳だった。この頃までの彼の風体はこう描写されている。

 「明衣(ゆかたびら)の袖をはづし、半袴、ひうち袋、色々余多(あまた)付けさせられ、御髪(おぐし)はちやせんに、くれなゐ糸・もゑぎ糸にて巻立てゆわせられ、太刀朱ざや」
(袖無しの湯帷子を着て半袴をはき、火打ち石の入った袋など色々身につけ、髪は紅や萌黄(黄色っぽい緑色)の糸で巻き茶筅曲げに結い上げ、朱色の鞘の太刀を佩いた)

 湯帷子(かたびら)というのは現在の浴衣の原型で、それに半袴(長袴ではなく、足首までの長さ)を履き、火打ち石の袋などを腰から下げ、カラフルな糸で髷を結う。朱色の鞘(さや)の太刀は、傾奇者の象徴でもあり、絵に描いたような不良少年の姿なのだが、翌年の信秀の葬儀の場ではどうだろうか?

 「長つかの大刀・わきざしを三五なわにてまかせられ、髪はちやせんに巻立、袴もめし候はで」(長い柄の太刀と脇差しを差しているのだが、その柄を三五縄で巻き、茶筅(ちゃせん)曲げの髪型で袴も穿かず)

 おやおや、このときには袴すら履かない着流しスタイルだったようだ。
岐阜公園の入り口に立つ「若き日の織田信長像」奇矯ないでたちをしていた頃の信長を想像させる
岐阜公園の入り口に立つ「若き日の織田信長像」奇矯ないでたちをしていた頃の信長を想像させる
 この葬儀の翌年、信長はしゅうとで美濃の大名である斎藤道三と面会する(信長の正室は道三の娘、帰蝶だった)。ここでも信長の格好は変わりない。いや、ひとつ異なるところがあった。

 「御腰のまはりには猿つかひの様に火燧袋・ひようたん七つ・八つ付けさせられ」(腰のまわりに猿使いの様に火打ち石袋・7~8個のひょうたんを付けていた)

 ひょうたんが何個も腰にぶら下がっていたという。

 道三との会見の場で信長は礼式にのっとった正装へと鮮やかな変身を遂げ、以降はまともな身なりをするようになるのだが、それまではこの異様な装いを通していたのだ。

 次回はここで問題となる若き日の信長スタイルのアイテムについて、掘り下げていきたいと思う。