家康と秀忠の征夷大将軍就任


  慶長8年(1603)2月12日。晴れて徳川家康は征夷大将軍に任官し、江戸幕府が成立した。家康は、武家の棟梁を意味する征夷大将軍に就任し、名実ともにその地位を不動のものにしたが、一方の豊臣家の劣勢は否めなかった。

 2年後の慶長10年(1605)、家康は征夷大将軍の職を子息の秀忠に譲った。このことは、徳川家が征夷大将軍職を世襲することを天下に示したものであり、豊臣家の動揺も少なからずあったであろう。以後、秀忠は江戸城に住み、家康は駿府城に居住した。「二頭政治体制」のはじまりである。しかし、この一事をもって、必ずしも家康が豊臣家の滅亡を志向したとは考えられない。

 秀頼と千姫との結婚


  家康が豊臣家との良好な関係を維持しようとしたことは、秀頼と千姫との婚姻に見ることができる。慶長3年(1598)8月、病床の豊臣秀吉は、秀頼に家康の孫を嫁がせるよう遺言した。それを受けて、慶長8年7月、大坂城で豊臣秀頼と千姫は祝言をあげた。

  家康は秀吉の遺命を受け、豊臣家に手厚く接したことは「日本耶蘇会年報」にも記されている。しかし、2人の婚姻は、家康が単に約束を履行しただけとは考えられない。当時の婚姻は政略結婚であり、同盟関係の構築を意味していた。つまり、家康は孫娘を秀頼に嫁がせることにより、豊臣家と強固な関係を築こうとしたと考えられる。

  家康は豊臣家との敵対関係を避け、円満な関係を築こうとしたのが本意であったと推測される。また、豊臣家も家康に反抗せず、受け入れることが自然なことであった。したがって、2人の結婚は、両家の関係を強くする方策であり、ともに希望して実現したのだ。

 天下普請と秀頼


  慶長9年(1604)、家康は各地の大名に命令し、江戸城の普請を命じた(天下普請)。この計画は、西国方面の豊臣系諸大名を含む全国の諸大名を動員して推進された。慶長11年3月から江戸城普請が本格的に開始されたが、参加した大名の中に豊臣秀頼の名前はない。

  しかし、八名の江戸城の普請奉行のうち、2名(水原吉勝、伏屋貞元)が秀頼の家臣であった。秀頼は動員されず、家臣を派遣し普請を差配する側にあった。江戸城普請は、秀頼の同意と協力を得て遂行され、対等な関係で協力したことになる。したがって、天下普請に関しては、秀頼の協力を取り付けたところに意義があると考えられ、家康の権力と権威、そして徳川公儀の存在を天下に知らしめればよかったのだ。秀頼は孫娘・千姫の夫でもあり、この時点で秀頼を服従させようとの考えはなかったと考えられる。