二条城での会見


  慶長16年3月28日、二条城において徳川家康と豊臣秀頼との面会が行なわれた。

  秀頼が二条城に到着すると、家康は自ら庭中に出て丁重に迎え入れた。家康は対等の立場で礼儀を行なうよう促したが、秀頼はこれを固辞し、家康が御成りの間にあがると先に礼を行なった。これまで立場的には秀頼が上であったが、とうとう逆転したのである。

  二条城での会見は、家康が秀頼を二条城に呼び出し、挨拶を強要して臣従化を行なったとされ、豊臣家に屈辱を与えたとされている。ところが、実際には丁寧な家康の応対ぶりからして、秀頼に臣従を強制したとは考えがたい。

  2人の会見の本質は、家康が秀頼を二条城に迎えて挨拶を行なわせたことにより、天下に徳川公儀が豊臣公儀に優越することを知らしめる儀式であった。これは家康により巧妙に仕組まれたものであり、自然な流れの中で豊臣家を下位に位置付けようとしたのである。

  一見して家康は秀頼に配慮を示しているが、秀頼は対等の立場でという家康の提案を受け入れるわけにはいかなかった。いうまでもなく、官位などの立場は従一位の家康のほうが上位に位置していたからである。この頃から、家康は秀頼を一大名として処遇することを強く意識したのではないだろうか。

方広寺鐘銘事件


 慶長19年(1614)8月、方広寺で大仏開眼供養会の実施が決定すると、天台宗の僧侶で家康の懐刀の南光坊天海は、供養会で天台宗の僧侶を上座の左班にするよう、豊臣方へ申し入れた。前回の供養会で、高野山の木食応其の主張を受け入れ、真言宗を左班にしたからである。家康も、大仏の開眼供養と堂供養を同時に行なうのか質問した。ともに難題である。

 同年7月18日、片桐且元は家康のいる駿府城に赴き、開眼供養と堂供養の日程を午前と午後で実施する策を献じた。しかし、次に臨済宗の僧侶で家康の信頼が厚い金地院崇伝は、家康の意向を汲み取り、2日に分けるべきであると改めて主張した。

 同年7月21日、家康は大仏鐘銘に「関東に不吉の語」があり、しかも上棟の日が吉日でないと立腹の意を大坂方に表明している。家康の意を受けた崇伝は、且元に書状を送り、上棟、大仏開眼供養、堂供養を延期し、改めて吉日を選んで実施するよう要請した。

 また、方広寺の鐘銘には、東福寺の長老・文英清韓が撰した「国家安康」の4文字について、家康が不快であるとした(家康の2文字が分かれている)。これが方広寺鐘銘事件のはじまりである。