こじれた交渉


 方広寺鐘銘事件は大いにこじれ、慶長19年7月26日、徳川家康は京都の板倉重昌・片桐且元に上棟、大仏開眼供養、堂供養のすべてを延期するよう要請し、2人は受け入れた。豊臣方は鐘銘問題を解決するため、且元を駿府の家康のもとに派遣した。

 ところが、家康は且元に会おうとせず、応対したのは側近の本多正純と崇伝の2人であった。且元は正純と崇伝に対し、豊臣秀頼が家康・秀忠に反逆の意思がない起請文を提出する旨を告げた。正純と崇伝から報告を受けた家康は提案を拒否し、解決策を示さなかった。

 同年9月18日、且元は①秀頼が大坂を離れ、江戸に参勤すること、②秀頼の母・淀殿が大坂を離れ、人質として江戸に詰めること、③以上のいずれかの条件が承諾できない場合は、秀頼が大坂城を退去し国替えをすること、の三つの条件を提示し、解決を図ろうとした。

 しかし、これより以前、淀殿が派遣した大蔵卿が駿府で家康と面会した際、家康は豊臣家に異心がないことは承知しているとして、淀殿に安心するようお伝え願いたいと言っていた。家康の心中を知っていた淀殿らは、且元が豊臣家を裏切ったと激怒した。豊臣家中の強硬派の怒りも収まらず、ついに且元を討伐するとの動きになった。

 一連の動きは、家康が自らのメンツを守るため、天海や崇伝そして且元らを活用し、自らが手を汚すことなく、豊臣家を臣従させようとしたと考えられる。

 同年10月1日、身の危険を感じた且元は大坂城を退去し、居城である摂津茨木城に立て籠もり、大坂の軍勢に備えて防備を固めた。且元の真意は、徳川家と豊臣家の融和を図ることにあったが、実際には家康に翻弄され、思いがけず豊臣家を去り、徳川方に与せざるを得なくなったというのが真相であろう。