関ケ原から大坂の陣へ


 第一次上田合戦の際、昌幸は上杉景勝に支援を求めました。そして臣従の証のために、信繁は人質として越後へ送られます。その後、真田家は豊臣秀吉に臣従、信繁も改めて秀吉の許に人質に出されました。これが信繁にとって、他家の気風を知る機会となります。上杉家では直江兼続から「義」を重んじる謙信伝来の軍法を学び、大坂の秀吉の許では「天下の采配」を目のあたりにし、いわば武者修行的に軍法を習得する機会となったのです。

 やがて、信繁に大きな転機が訪れます。秀吉の死後、専横を極めるようになった徳川家康は慶長5年(1600)、上杉征伐を敢行。これに対し石田三成らは、打倒家康の挙兵に踏み切りました。この事態に上杉征伐に参加するはずの真田親子は、下野国佐野でいずれに与するべきかを相談。その結果、長男の信幸は家康の東軍につき、昌幸・信繁父子は西軍の三成らに与することになります。そもそも昌幸は沼田の一件以来、家康によい感情は持っていません。長男の信幸は、家康譜代の家臣・本多忠勝の娘を家康の養女として娶っていました。一方の信繁は、秀吉の仲立ちで石田三成の盟友・大谷吉継の娘を娶っています。これにより真田家は、敵味方に分かれることになりました。いわゆる「犬伏の別れ」です。

 ただし私は、昌幸は自分なりに先を読み、やはり家康側が勝つだろうと見通していたのではと考えます。よく真田家を残すため、東西どちらが勝ってもいいように戦略的に両天秤をかけたといわれます。結果を見ればそうですが、果たして最初から昌幸がそういう計算をしていたかどうかはわかりません。むしろ家康には手を貸したくない意地というか、「真田の誇り」が、三成方に与する選択をさせたのではないかと考えています。

 関ケ原合戦は僅か1日で、徳川家康方の東軍完勝で終結しました。昌幸・信繁父子は、関ケ原へと向かう徳川秀忠の3万8千の大軍を、またも真田の軍法をもって上田城でさんざんに翻弄しますが(第二次上田合戦)、西軍の敗北により、敗軍の将として高野山の九度山へ流されることになります。家康は当初、2人を死罪に処すつもりでしたが、信幸の必死の嘆願もあって命だけは助けられました。

 信繁は働き盛りの34歳から48歳までの14年間、経済的な困窮と、二度と日の目を見ることはないであろうという絶望感に苛まれながら、蟄居生活を余儀なくされます。

 一方で、世の中は大きく動きます。家康は豊臣秀吉の死に際し、跡継ぎである秀頼の後見を託されてその補佐役、つまり「天下の家老」という立場にありました。しかし、関ケ原後、家康は自らの政権の樹立を本格的に考え始めたと思われます。もっとも家康は豊臣家について、秀頼が65万7千石の一大名の地位に甘んじるのならば、そのまま存続させる心積もりでいたと私は考えています。

 ところが、その方針を大きく転換させたのが、慶長16年(1612)に秀頼が二条城に家康を訪ねた「二条城の会見」でした。この会見で、家康は予想以上に立派に成長した秀頼の姿に衝撃を受けます。しっかりとした物腰で、教養にも富んでいる。家康は自らの70歳という年齢を意識せざるを得ず、自分の死後、諸大名が徳川家にそのまま臣従し続けるかどうか、不安と仕焦りに襲われました。そして豊臣家が大坂城に居続けて、将来の天下を窺うというのであれば潰すしかないと、家康は肝を決めて、豊臣家への攻勢に出るのです。

 しかし、家康には秀頼を討つ口実がありません。そこへ降って湧いたように起こったのが、「方広寺鐘銘事件」でした。家康はかなり強引なこじつけの末に、豊臣家を討つ「大坂の陣」へと持ち込んでいくのです。