「真田幸村」として後世に語り継がれる


 大坂の陣によって豊臣家を滅ぼすと、徳川幕府は安定した政権運営を行ない、太平の世が長く続くことになります。しかし民衆は、そんな徳川の世を諸手を上げて歓迎していたわけではありません。江戸時代に入っても、秀吉の時代の方がよかったのではないかという鬱屈した思いが民衆にはありました。

 江戸時代には、秀吉を描いたいわゆる「太閤記物」が弾圧されていきます。太閤記物では、秀吉に臣従していた時代の家康を描いているため、幕府としても看過できるものではありませんでした。そこで村芝居などでは、「羽柴秀吉」を「真柴久吉」などに変えて、演じられたりしています。

 そんな時代に、信繁は「真田幸村」という名で、天下人である家康を再三苦しめ、豊臣家への義のために男を散らした英雄として庶民から人気を博しました。生前使ったこともない「幸村」という名前がなぜ広がったのかについては諸説あり、正確な理由を探ることはできません。しかし、武将としての器量に恵まれながら、働き盛りの日々を無為に送る悲哀を味わい、最後に自らの誇りを守るために決然と起ち、見事な花を咲かせて、美しく散華した…。そんな生き様を見せてくれた信繁に共感し、喝采を送るために、幸村という名前で物語が作られ、長く語り継がれたのではないのか、私にはそう思えてなりません。