まず、第一の理由が、「どうしても銃を持たないといけない」と感じる必然性がある地域がアメリカには存在することである。そもそもアメリカは日本の25倍である。人口は1億2000万人の日本の2・6倍と考えると、極めて広い。想像すればわかるように、都市部を除けば、警備会社や警察などを呼んですぐ来てくれるようなことはなかなか難しい。

 そのため、どうしても自衛しなくてはならないという意識が開拓の時代から続いてきた。協力して自衛する「ネイバーフッドウォッチ」といったものを含めて、銃は欠かせない。

 この自衛については合理的である部分は確かにある。しかし、私がどうしても「ゆがんでいる」と感じてしまうのは、長年作り上げられてきた銃をめぐる文化である。これが二つ目の銃が増え続ける理由である。
(iStock)
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 少し訓練させた後、父親が息子を野生動物の狩りに連れ出す「男の生き方を教える」といったマッチョ的な文化が、南部や中西部など保守的な地域では根付いている。女性も行うケースもあるが、父と子や、男同士が連れだってワイルドに野生動物を仕留めるのがこの文化のしきたりである。

 また、保守的な地域の政治文化とリベラルな政治文化とは大きく異なるのがアメリカである。リベラルな地区の人々の間では銃を規制する声が強く、そもそもそんな銃文化が根付いていない。

 筆者はかつてワシントンやその郊外に8年弱住んでいた。都市部であるため、そもそも野生動物がいない。また、全米でも最もリベラルな地域であるため、このマッチョな銃文化は映画と小説の世界のものであった。

 ただ、最後に住んだ郊外のアパートで、その文化の一端を知ることになった。アパートはちょっとした小さな森と隣接していた。森にはとても愛らしい瞳の小鹿がたまに現れた。その姿をみるために、毎朝、妻と森を散歩するのが楽しみだった。鹿は臆病なのでこちらが近づくと逃げてしまう。そのため、双眼鏡をいつも持参していた。

 だが、ある日、アパートの玄関先で、管理人たちの3人組(男だった)が「鹿がいるらしいぜ」と笑っていたのを耳にした。「仕留めよう」「あした俺はライフルを持ってくる」「俺は弓」と喜びながら話しているのを聞き、背筋が凍る気がするのと怒りがこみ上げた。「そんなことするんじゃない」と強い口調で話しかけたが、両手の掌を上に向けて興ざめのポーズをとった。

 次の日以来、小さな森に小鹿は出なくなってしまった。楽しかった散歩も耐えられなくなり、翌月に引っ越しを決めた。

 マッチョ的文化には格好をつけるような部分も含まれる。日本の高校生が突っ張るのと同じ感覚で、自分を大きくさせるのに必要な小道具が銃である。そんな文化は個人的には耐えられない。ただ、それが拡大再生産的に大きくなっているのも事実だ。