地検正門に着いたのは午前7時27分。すぐに5階の取調室に入った。テーブルを挟み向かって右に検事正の高瀬礼二(78)、左に取り調べにあたる石黒久あき・特捜部副部長が座った。高瀬が口を開いた。

 「前総理の田中さんに、このような形でお目にかかるとは誠に残念です」

 高瀬は特捜部検事時代、関西のある地検からの捜査嘱託で、参考人として田中から話を聞いたことがあった。高瀬が「夏のさなかで、今のように扇子を使っておられましたが、田中さんに『検事さんの仕事も大変ですね』と言われました」と話した。田中は扇子を止めて、急にしんみりし、「忘れちゃったなあ。覚えておけばよかったなあ」と言った。

 8時50分、逮捕状が執行された。合同捜査本部の一翼を成す警視総監の土田国保(72)ですら「知らされていなかった」極秘の逮捕劇だった。

 田中は過去に総理経験者が逮捕されたかどうか、尋ねた。

 高瀬は、昭和電工事件(23年5月)の芦田均を例に挙げ、「しかし、総理ご在任中の事実で逮捕されたのは、田中さんが初めてでしょうね」と付け加えると「イヤー、初めてか」と苦笑いした。田中は、よほどこのことが気になったのか、東京拘置所に行く車の中で、松田にも同じ質問を繰り返している。

 2時間後、取調室を出る際、高瀬が「これから環境が変わられるので、どうかお体に十分、お気を付け下さい」と気遣うと、右手を挙げて例のポーズを取りながら「ありがとう」を3度繰り返した。

 再び取調室に姿を見せた松田が「さあ、参りましょうか」と促すと、田中は立ち上がった。「手錠は考えなかった」という。

 拘置所までの道中を考え、5階のトイレで2人は並んだ。手を洗った田中の手には、ハンカチ代わりに手をふいたちり紙がボロボロになってひっついていた。それを見た松田が「暑い折ですから、どうぞお使いください」とセロハンに入った真新しいハンカチを渡すと、田中は「いや、ありがとう」とポケットにしまった。

 「汗かきと聞いていたし、地下の売店で念のため前日、ハンカチを買った」という。

 田中が保釈されてからしばらくたった9月初め、秘書が洗濯したハンカチを返しに来た。田中の自筆の手紙が添えられていた。

 『御高配いたゞき心からお禮申し上げます。借用のタオルお返しいたします。いずれの日にか御拝眉のおりお禮申し述べ度いと存じます』

 松田は59年春から事件の控訴審を担当する東京高検特別公判部長となり、田中弁護団の切り札である笠原運転手のアリバイ主張を切り崩した。だが、法廷に田中の姿はなく、「拝眉」は実現しなかった。返されたハンカチは今も大事に持っている。