例えば、自民党総裁である安倍首相の演説を1分間流したら、共産党の志位和夫委員長の演説も1分間流すという「量による公平性」だった。これは、大新聞の紙面においても配慮されてきたことだ。なぜ、このように量を担保したかといえば、それは電波が希少だったからである。しかし、ネットのように無限のメディア空間ができてしまった現在、この理屈は成り立たない。

 そこで、2月に放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会は、テレビの選挙報道について「編集の自由が保障されている以上は、求められているのは出演者数や露出時間などの量的公平性ではない」とし、政治的公平性は報道の「質」で保つべきだとする意見書を公表した。「量」から「質」への転換である。したがって、今回の総選挙はテレビにとって報道の質を初めて問われることになった。

 そこで、特にこの点を注視して報道を見てきたが、これまで大きく変わった点はそう見られなかったというのが私の見解だ。むしろ、各局は独自の姿勢に基づいて報道してもよかったのではないかと思う。

 例えば、「希望」を「絶望」に変えた小池百合子東京都知事が大風呂敷を広げたにもかかわらず「敵前逃亡」してしまったことだ。初めから当日パリにいるつもりなら、なぜ民進党を巻き込んだのか。その国民をなめたやり方の無責任ぶりをもっと追及すれば、この国が抱えている政治的な問題がもっと明らかになっただろう。
希望の党開票センターで、当確者の名前をボード張る樽床伸二代表代行(左)。右はテレビ中継で発言する細野豪志氏=2017年10月22日、東京都内のホテル(酒巻俊介撮影)
希望の党開票センターで、当確者の名前をボード張る樽床伸二代表代行(左)。右はテレビ中継で発言する細野豪志氏=2017年10月22日、東京都内のホテル(酒巻俊介撮影)
 また、日本の「リベラル」が実はリベラルではないこと、護憲とリベラルは一致しないことを立憲民主党の主張から導いてほしかった。リベラルが「改革・革新」を意味するなら、リベラルこそ改憲を唱えて社会を革新していく使命がある。それが、なぜ「平和憲法」といっても「日本の平和」ではなく「アメリカの平和」のために存在する第9条を変えてはいけないか。この摩訶(まか)不思議なリベラルをもっと解明してほしかった。

 そして、選挙のために途切れてしまった「モリカケ問題」報道を、なぜこの期間に限ってほとんどやめてしまったのか教えてほしい。選挙結果と関係なく、「腹心の友」と「アッキー」は国民の前に出るべき義務から逃れられないはずだ。