現在は名古屋市中区丸の内、名古屋城の南方に移され「那古野神社」となった亀尾天王社は、津島牛頭天王社の末社。神仏の方が出張して来てくれているのだから、何も徒歩なら片道3時間以上、騎馬なら2時間(?)もかけて津島まで通う必要もない。

「信長公蛇石曳之図」(伊藤龍涯作、摠見寺所蔵)
「信長公蛇石曳之図」(伊藤龍涯作、
摠見寺所蔵)
 それに、信長は何も仏様に詣でるために天王坊へ通っていたわけではなかった。では何のためかというと、それは学問修業のためだ。当時の有力武士の子弟は必ず寺院で勉強し、学問と教養を身につけるのがならわしだった。上杉謙信は林泉寺、武田信玄は古長禅寺、今川義元は善得寺、徳川家康は臨済寺と、それぞれ寺院で教育を受けている。当時は僧侶が学問のエキスパートであり、京の上流階級や他の大名とまじわるための嗜(たしな)みを広め伝える文化の担い手でもあったのだ。というわけで、信長も貧乏ながら那古野城の若殿様である以上、日々天王坊に通って学ばなければならないのである。

 そしてこの天王坊安養寺が守る、つまり本社の津島牛頭天王社の祭神でもある主祭神に注目しておきたい。それは、素戔嗚尊(スサノオノミコト)だ(ちなみに、安養寺のご本尊はごく普通に阿弥陀如来だったらしい)。

 スサノオの物語は皆さんよくご存じだろう。『古事記』に登場するこの荒ぶる神は、出雲で八俣の遠呂智(ヤマタノオロチ。『日本書紀』では八岐大蛇)を退治しその体内から草薙剣(サクサナギノツルギ)を得た。神話の時代の話ではあるが、オロチを斃(たお)してその「本体」とも考えられる草薙剣を手に入れたということは、オロチの力をわが物としたと解釈できるだろう。

 ちなみにこの説話は、スサノオに象徴される大和王権が、すぐれた鋼(はがね)を生み出す出雲に進攻し、製鉄技術を獲得したことを象徴するともいわれている。スサノオはまさにオロチの力を獲得した神なのだ。スサノオは後にこの剣を姉の天照大神(アマテラスオオミカミ)に献上したが、本人は出雲に新居を構えた。その子孫には大国主命がいる。オロチ=出雲の鋼鉄はスサノオが支配し続けたのだから、オロチの力は草薙剣を手放しても彼の手に残ったといえる。

 信長からだいぶ話が離れてしまった感があるが、ここで前回の話を思い出していただきたい。信長が刀の柄に巻いていた三五縄の話である。この魔除けの縄が表していたのが蛇。そしてオロチは、蛇、大蛇そのものである。頼る肉親もいない寂しい生活の中、信長は日々天王坊でスサノオの説話に触れて育ったのだから、スサノオが得たオロチの力への畏れ、憧れは深層心理に知らず知らず沈殿していったはずなのだ。もっとも、ここまで話が飛躍すると「なんだ、所詮はこじつけじゃないか。信長は蛇の力なんかに頼らない、自分の力しか信じないタイプの男だろう」と仰せの向きもあるだろう。そういう方は、ぜひもう少し我慢していただきたい。