見事な出処進退とは――「漢たちの決断」の魅力


 天下分け目の戦いに臨んだ武将たちの決断を、後世の価値観でのみ判別しようとしたら、彼らの想いは断じて汲み取れないだろう。

 この時代の武士たちが大切にした価値観。それは「名を惜しむ」ということであった。

 合戦に至るまでの決断、そして合戦での一挙手一投足の中で、遺憾なく自らの「矜持」や「力量」を示し得た者の「名は残る」。多くの武将たちは、そうありたいと願った。関ケ原の合戦でも、先に挙げた武将たちをはじめ、「名を残した」者たちが数多くいる。

 逆に、当時の武士たちにとって最も忌まわしいのは「力量不足」と評価されることであった。典型的なのは、事前の根回しなしに寝返ったり、日和見で決断を下せぬような出処進退である。同じ寝返りでも、事前に意を通じていれば、非難される筋合いのものではなかった。東軍に寝返った武将でも、事前に家康と意を通じていた小早川秀秋や脇坂安治らは所領を安堵されているが、それなしに寝返った赤座直保や小川祐忠は改易されている。

 三成や家康も、同じ価値観の中に身を置いていた。三成を評価しない人の中には、「愚かにも負けるとわかっている戦いに突っ込んだ」と評する向きもあるが、それは正しい見方とは言えない。三成はあくまで勝算を立てて挙兵しているのである。

 そもそも家康と三成とでは、石高も255万7千石対19万4千石と大きな差がある。勢力基盤が隔絶しており、しかも、戦績も武名も断然、家康が上である。にもかかわらず、蟄居という境遇から挙兵して、短時日のうちに天下を二分するほどの一大勢力を結集し、東軍と互角の陣立てで家康に真っ向勝負するまでに持ち込んだ三成の「決断」と「力量」は、実に見事なものであった。

 一方の家康も、決して勝ちが確実な状況ではなかった。徳川譜代の精強部隊3万8千を息子の秀忠に預けて中山道を西上させたが、途中、真田昌幸との上田城での戦いに時間を取られ、秀忠軍は関ケ原での戦いに遅参してしまう。虎の子の軍勢を欠く状況下、いくら吉川広家や小早川秀秋などへの工作を展開していたとはいえ、西軍が待ち構えているど真ん中に突っ込んでいくのは、生きるか死ぬかの勝負に出る決断がなければ、不可能であったはずだ。また、予想に反して西軍が善戦して東軍が押され気味になると、むしろ自陣を桃配山からさらに敵中へと前進させた気迫は、さすがに歴戦の強者の面目躍如と言える。

 勝敗の読めぬ状況で、自らの信念を貫徹し、見事な出処進退を見せた武将たちの姿は、実に魅力に富んでいる。もしあの時、あの局面に立っていたら、私たちは果たして「名を残す」ような判断を下せるか――漢たちの決断の積み重ねで戦われた戦いを、当時の視点で見つめ直せば、また違った「関ケ原」が見えてくるはずだ。