日馬富士の酒癖についても語られている。私も「酒乱」と呼ばれる人の変貌ぶりを目の当たりにしたことがある。普段は温厚で誠実そのものの人物が酔うと、自制心をなくすというよりも別人と化し、仕事先の社長という考えられない相手に殴りかかる姿を見て、驚愕(きょうがく)した。お酒によって「人が変わる」体質の人が本当にいる。もし日馬富士がその傾向を持つならば、適量以上のお酒を飲まない、飲ませない、といった配慮が重要だ。今回は親しいモンゴルの仲間だけの酒席だから、参加者はみな日馬富士のそうした傾向は知っていたのではないか。知った上でその席にいた。

 暴力は許されるものではない。だが、暴力に至る経緯を聞く限り、日馬富士の主張はもっともだ。日馬富士が感じたこと、貴ノ岩への忠告はいずれも頭が下がる。多くの日本人がわが子や後輩になかなか直言しきれなくなった大切なことだ。その指導に暴力を用いたことに理解の余地はない。暴力に訴えたことで立場が逆転する。それは当然だ。

貴乃花部屋宿舎に謝罪に訪れた日馬富士(左)と伊勢ケ浜親方
=2017年11月14日、福岡県田川市
 今回の事件で「横綱の品格」が問われているが、日馬富士の直言はまさに横綱ならではの姿勢や考えを示している。

 テレビのワイドショーなどで、評論家が日馬富士を非難するシーンを見ていて、言いようのない違和感も覚えた。道徳的に非難するのは当然だが、相撲の厳しさをおそらくまったく理解していない発言だ。

 今場所の初日、日馬富士が新小結・阿武咲(おうのしょう)に敗れた一番。テレビの前にまで、立ち会いのゴツンという鈍い音が聞こえた。敗戦後の日馬富士のまなざしを見たら、脳振とうを起こして、一瞬、意識がもうろうとしたための敗北ではないかと思えた。それが大相撲だ。頭と頭が容赦なく激突するあの激しさは日常生活には存在しない。私は普段から相撲好きを公言し、いまでも中学生たちと相撲を取る。その楽しさを子供のころから味わっている。だが、そうした遊びの相撲とプロの相撲の決定的な違いが「立ち会い」にある。

 平幕力士が初めて横綱と対戦したとき、「まるでダンプカーにぶつかるような恐怖を感じた」と聞いたことがある。それほどの衝撃と恐怖を常に感じて、力士たちは土俵に立つ。その厳しさをまったく理解せず、忘れて、ただ道徳論だけで相撲を語るのでは足りない。相撲は元来、そのような、一般人が日常的には経験しない身体的な衝撃を前提とする文化伝統なのだ。

 それだけに、気概が足りなければ、激しい方法で闘志を喚起する方法が採られてきたのだろう。暴力を容認する気はないが、そうした背景を理解する必要もあるだろう。そのことを忘れて、ただ一般人の常識論、道徳論の次元でこの問題を非難する滑稽さにも私たちは気づくべきだと思う。