高齢者の性を「あってはならないもの」として否定的に捉えるのではなく、人間らしく生きる上で「あって当たり前のもの」として肯定的に捉え、社会資源の活用や家族・関係機関・専門職との連携を通して対応する試みは、少しずつではあるが現場に広まってきている。

 日々の生活の中でのプライバシーの確保、自慰行為のできる環境の整備などの「性に対する合理的配慮」を通して、その人が最期まで人間らしく生きていくために必要な、最低限度の性の健康と権利がきちんと守られるような仕組みを作っていくこと。これから「超」超高齢社会を迎えるにあたって、私たちの社会に求められていることは、この一点に尽きる。

 性は生殖の手段であるだけでなく、他者とのコミュニケーションの手段でもある。加齢によって社会との関わりを失い、離別や死別によって家族との関わりを失い、認知症や病気によって自分自身との関わりをも失ってしまった人たちにとって、性は外界と自分を結ぶ唯一の手段として最後に残された一本の命綱=「蜘蛛の糸」である。
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 今にも切れそうなその細い糸を「あってはならないもの」として断ち切ってしまうのか、それとも「人間らしさの最後のよりどころ」として大切に見守っていくのか。この選択を誤らなければ、将来私たち自身が同じ立場になった時にも、無明の中で「蜘蛛の糸」をつかむことができるに違いない。

 孤独の中で漂流・暴発しがちな高齢者の性を「受け入れる」とまではいかなくとも、不必要に問題化せずに、当たり前のこととして「受け止める」仕組み、そして当事者にとっても支援者にとってもストレスの少ない形で、良い意味で「受け流す」仕組みが社会的に整備されていれば、私たちはいくつになっても安心して性的な存在であり続けることができるはずだ。そうした社会に暮らしているという安心感こそが、加齢に伴う性的孤独を少なからず和らげてくれるのではないだろうか。

 来るべき「超」超高齢社会で私たちが目指すべき社会の姿は、こうした「誰もが安心して晩節を汚せる社会」だと私は考える。