『信長公記』には、この蛇池のエピソードに続いてもう一つ、興味深い話が収録されている。それは、信長の身内と言ってもよい、乳兄弟(信長の乳母の子)にあたる池田恒興(つねおき)に関するものだ。信長の家臣・織田信房の家来と、同じく家臣・恒興の家来とが刃傷沙汰を起こし、裁判に持ち込まれる。ここで信長が命じたのは、「火起請(ひぎしょう)にせよ」ということだった。

 火起請とは当時しばしばおこなわれた判定方法で、炎にくべ真っ赤に熱した手斧などの鉄製品を握らせて所定の場所に置くことができればその者は正しい、あるいは勝ち、ということになる。信長はこれを「三王社の前」でやらせたのだが、これは山王社=日吉神社の前だろう。清洲城跡の南、800メートルほどのところに三王日吉神社が鎮座しているのがおそらくそれだと思われ、この神社の由来にもこの話は自社でおこなわれたとされている。

 かつて清洲の総氏神=名古屋の中心的神として大切にされていた神社。その社域の前ということではなく、当然火起請は神前でおこなわれた。つまり神の判断を仰ぐという意味である。

 その場で、恒興の家来は焼けた手斧をつかむことができなかった。ところが、恒興は信長の乳兄弟という立場を利用して家来をかばい、命を助けようとしたのである。

 これを聞いた信長は、怒った。現地におもむいて関係者全員を前に「どの程度まで手斧を焼いたのか、見せよ」と命じると、再び真っ赤に焼かれた手斧をわが手で受け取り、スタスタと3歩歩いて棚に置き、「見たか」と周囲を見渡し、恒興の家来を成敗させた。

信長が火起承を行った日吉神社の境内にある申の像(中田真弥撮影)
信長が火起承を行った日吉神社の境内にある申の像
(中田真弥撮影)
 なんともすさまじい話であるが、重要なのはこれが日吉神社の神前だったという点だろう。日吉神社は津島の牛頭(ごず)天王信仰とも関係が深いといわれる。この神社の祭神・大山昨神(おおやまぐいしん。五穀豊穣、植物の成長を司る)はその本家・比叡山の日吉神社が猿を神の使いとし、「真猿」=魔が去る=厄除けの利益をもたらしてくれる神であり、魔除けに余念がなかった信長には大切な神だった。さらにそれだけではなく、厚く尊崇する素戔嗚尊も祀られていたから、その神慮を無視して私欲を優先しようとする恒興を許すことができなかったのだ。

 灼熱(しゃくねつ)した鉄で自らの手の肉を焼くというすさまじいやり方をとってまで神意をはばかった信長。その姿は、無宗教主義者というレッテルからかけはなれたものというほかないではないか。