拡散され希釈されて、日常の表には現れないかすかなよどみを、私は肌で感じながら生活してきました。何の因果因縁かは知りませんが、たまたま彼を核として凝集してしまったのでしょう。口にしづらい、話題にしづらい事柄ではありますが、せめて義務教育の現場においては、主要なテーマとして思索を深めていただきたいものであります。

 これはあくまでも私の個人的な肌感覚なのですが、子供の純粋であるがゆえの残酷で幼稚な理性では、障害者に対する悪感情を制御することは難しいでしょう。私が「インクルーシブ教育」に半信半疑である理由であります。
(iStock)
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 子供は大人の顔色を瞬時にくみ取ります。障害者をサポートしている職員が少しでも困ったそぶりを見せると、それが「障害者は負担」だとする印象につながりかねません。また、各家庭での会話の中で何気なしに言った言葉を、子供は意外な程にピックアップしているもので、それが障害者に否定的なものであれば、深く思慮することのないまま学校に持ち込んでくるものです。

 児童期にそのように刷り込まれると、長期間にわたって修正困難であるように思います。社会正義などの「公共性」の概念が理解できる年齢、せめて中等教育以降に適用する方が望ましいと考えます。準備不足の危険性を軽視すべきではないと思います。

 うかつに子供を神聖視すると、そのつけが障害を持つ児童に無慈悲な打撃となるかもしれません。教育現場において、一つや二つの成功体験を一般化してしまうのは早計に過ぎるかと思います。千差万別、全てがオーダーメードであろうと考えています。それを担うことのできるプロフェッショナルが、どの程度に拡充しているのでしょうか。無理難題を押し付けられる現場の教職員の方々も、また気の毒なのです。

 障害者に無条件で優しくしろとか、過剰な好待遇をせよとか、そんなばかげた主張に、私は一切の賛同をしません。相手に不愉快な思いをさせて己は愉快な気分に浸りたいなどとは笑止千万の極みなのです。自らを惨めな存在におとしめてどうするのでしょうか、対等である以上の喜びを私は知らないのです。それぞれの場所、それぞれの立場で、持たざる者の意地を張り倒すしかないのだと思います。

 私のささやかな願いは、厚生労働省の公式見解として「健常者」という概念を否定していただけないかと思うのです。「障害者と健常者が共に」などと表現しているのが、まるで別の生き物を共生させようと苦心惨憺(さんたん)するサファリパークの運営会社の思惑のようで、胸くそが悪いのです。「健常者」を廃止し「軽微障害者」と再設定していただいて「普通障害者と軽微障害者が共に」であれば、溝も随分と狭くなるかと思うのです。

 だからといって障害者差別がなくなるものでもないと考えています。障害者同士の間でさえ差別意識はあるのですから、人の業の深さは計り知れないのですよ。楽園から追放されたその時から、人は皆「神様規格」から外れた「わけあり物件」です。願わくば相互理解の遍(あまね)く広がりますようにとつぶやいてみるのですが、底辺貧乏無神論者の祈りは誰に届くのでしょうか。