西郷隆盛が、最初に師として仰いだのは薩摩藩主、島津斉彬であった。斉彬は、当時としてはたいへん開明的な大名で、ヨーロッパの知識も多く持っていた。いまの言葉を使えば、国際化、情報化に十分に対応していける力を持っていた。

 だから、彼は薩摩藩主でありながら、常に、

「国際社会の中で、日本はどうあるべきか。その中で、薩摩藩は何をすべきか」

ということを念頭に置いていた。そこで、薩摩藩という小さな井戸の中の蛙のように、薩摩藩内のゴタゴタで終始、怒ったり悲しんだりしている西郷を、手元に引きつけて指導した。

島津斉彬(薩摩藩藩主)=三浦寅吉氏提供
島津斉彬(薩摩藩藩主)=三浦寅吉氏提供
 斉彬が西郷を発見したのは、たとえ井の中の蛙であっても、西郷が類まれな純真な青年であったからである。また、胸に秘めた情熱が、桜島の噴煙のように熱かったからだ。つまり、斉彬は西郷を「オクタン価の高い人間だ」と見たのだ。西郷は、斉彬によってしだいに目覚めた。斉彬は、単なる主人ではなかった。完全に師であった。また斉彬を通じて、さらに新しい師である水戸の藤田東湖や、藤田のところに学びにきていた橋本左内をはじめ、多くの友人を得た。こういう多面的な他人との交流が、西郷隆盛に蜘蛛の巣のような拡がりを持った人間関係のネットワークをつくらせていく。そして、これがのちにどれほど役に立つかわからない。

 西郷は鹿児島でも、若い連中とグループをつくった。『近思録』という書物を読み合う会だったが、これはやがて「精忠組」という政治グループに発展していく。西郷は、終始一貫この近思録派、あるいは精忠組のリーダーだった。

 彼が、自分からリーダーを買って出たわけではない。後輩たちが、「西郷さん、リーダーになってください」とせがむのである。そういう、黙っていても、自然にリーダーの座に押し上げられてしまうような人徳と魅力が西郷にはあった。それは、西郷が、常にどんな人間に対しても温かかったからだろう。

 彼は、後輩や部下についてこう言っている。

「世の中には、能力だけをモノサシにして人間を推しはかるリーダーがいるが、これは間違いだ。というのは、この世の中では、人間は、10人のうち、8人か9人まで大体が凡人だ。小人といってもいい。すぐれた能力を持つのは、ほんの1人か2人にすぎない。それなのに、能力のある1人か2人だけを見出して、後を石ころのように捨ててしまえば、この世の中は成り立たなくなってしまう。私は、そういう考えが嫌いだ。それよりむしろ、小人とか凡人とかいわれる8人や9人の人間の中に、その長所を発見して、それを育てることが大切なのだ。小人の中に、長所を発見できないようなリーダーは、本当に優れたリーダーではない」