フツーの組織人が聞いたら、飛び上がって喜ぶ言葉である。特に、能力主義が前面に出ている現在、「西郷さんのようなリーダーが、いま、職場にいたらなあ」と思うビジネスマンは多かろう。

大久保利通(幕末の鹿児島藩主・明治の政治家)
大久保利通(幕末の鹿児島藩主・明治の政治家)
 そこへいくと、大久保は違った。彼は、あくまでも能力主義である。西郷の、いわば、「どんな人間にも長所はある。それを発見して、手をつなぎ合って生きていこう」という考えは人間重視主義だ。したがって、そういう心と心で結びついた1つの輪ができる。見方によっては、派閥だ。大久保は、そう見た。そして、

「組織内に、そういう閥をつくってはいけない。組織で必要なのは、あくまでも組織の目的を達成する能力なのだ。それを重視すべきだ」

と主張した。したがって、明治政府の高級官僚になっても、大久保は、比較的派閥意識のない人間だったといわれている。よく明治政府を、「薩長閥」というが、大久保自身にはそんな考えはなかった。彼は、能力さえあれば、よその藩の人間でも、どんどん登用した。たとえば、伊藤博文とか大隈重信である。伊藤は長州の人間だし、大隈は佐賀の人間だった。が、大久保は、「われわれは、すでに日本という国家に所属しているのであって、薩摩藩や長州藩や佐賀藩に属しているわけではない。もっと、広い視野に立って、昔のことなど忘れるべきだ」

と言っていた。これが、鹿児島の人間を怒らせた。特に士族を怒らせた。西南戦争の遠因にもなっていく。

 だから、西郷隆盛があらゆる職場で、

「どんないやな職場にも、必ず学べる人、語れる人、学ばせる人がいる。そういう発見に努めれば、辛い職場もけっして辛くはない」

と言った。それに対し、大久保は、

「いや、そんなことはない。組織の目的を達成するためには、人間対人間のうじうじした関係に沈み込んでいてはいけない。そういうものを振りきって、あくまでも前へ進むべきだ」

と言い返す。これが、組織人としての西郷と大久保の決定的な差になる。つまり、はっきりいえば大久保自身は西郷の言うように、職場の中で積極的に、師や、友や、あるいは後輩を発見しようとは思わなかったのである。

 「黙って、俺についてこい」という気持ちだったかもしれない。というのは、西郷がつくった明治国家という新しい家の中で、大久保は事実上その家の主人となって、常に先頭を切っていたからである。大久保にすれば、自分が師であり、友であり、あるいは後輩であったのだろう。

※本記事は童門冬二著『西郷隆盛 人を魅きつける力』(PHP文庫)より一部を抜粋編集したものです。

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