翻(ひるがえ)って、西郷は青年時代からそういう意識で勉強してきた。下級武士時代は「いつの日か己の力を世の役に立てる」との意識で人格の修練に励み続けた。薩摩藩11代藩主、島津斉彬に見いだされてからはお庭方(つまり工作員)として情報収集に励む。情報収集には、人間関係の構築が何よりだ。人間関係の構築、特に情報の世界においては、本人の識見が何よりも重視される。ここに青年期の勉学が生きた。江戸の教育は世界最高だったと言われるが、西郷はその知的空間の一員として活動した。のみならず、そのような知的階層こそが、維新へのうねりを生み出していく。

 西郷が「早坂茂三のようだった」と評したのは、この頃のことだ。西郷は「運び屋」のようなこともしていた。もっとも西郷は黄金のみならず、「勅命」をも運んでいたが。斉彬における西郷、まさに角栄における早坂のごとし。

 若いころの西郷は、何をやっても上手くいくという才人ではなく、苦労も経験している。あるいは人間臭い面もある。たとえば、単身赴任の妻に家庭のもめ事を押し付け、自分は仕事と称して女遊びに励むなど。そして、主君斉彬の死、幕府の大老井伊直弼の大弾圧、二度にわたる島流しなどを経て、さらに自らの勉学を磨く。

 二度目の島流しでは、雨露をしのげない牢(ろう)に入れられ、ついには病気で睾丸(こうがん)が腫れ、馬に乗れない体になってしまった。あげく、島から出た時は自力で歩くこともできず、はいつくばっていた。

 しかし不遇の地位にあっても、限られた情報を頼りに己の未来を描いていた。そして常に、「皇国」の運命を思っていた。インテリジェンスオフィサーとしての西郷の真価が発揮されるのは、こうした苦労を経て帰還してからである。西郷は、薩摩藩重役として、幕末政局で多くの謀略を主導する。

郷里の鹿児島市に立つ大久保利通の銅像
郷里の鹿児島市に立つ大久保利通の銅像
 そして西郷の復帰に尽力したのが大久保利通である。大久保は幼いころからの竹馬の友であり、一方が苦しいときは必ずもう一方が援助する関係だった。大久保は常に西郷を指導者として立てていたが、西郷の失脚により政治家としての自覚に目覚め、そして西郷の帰還により政治的盟友として御一新へと突き進んでいく。

 全国の大名がおのおの年貢を取り、好き勝手に黒船や軍隊を作る。これではヨーロッパ列強に対抗できない。だから、日本を外国に支配されない国にしなければならない。天皇を中心として全国を統一する政府を作り、税を集め、強い軍隊を作らねばならない。救国の解は明確だ。

 しかし、障害があった。徳川慶喜である。慶喜は常に西郷や大久保らの前に立ちはだかった怪物政治家だった。文久の政変で薩摩を利用して政権を奪取して以降、朝廷・将軍家・幕府・諸大名、そして外国勢力をも変幻自在に操り、幕末政局の中心に位地(いち)した。

 誰もが慶喜を最高の人材とみなし、慶喜以外に日本を率いる人物はいないと考えた。ただ二人、西郷と大久保を除いて。西郷や大久保は、慶喜がいる限り強い政府ができない、すなわち救国は不可能だと判断していた。