政治的師匠たる島津斉彬の意向(生前は一橋慶喜擁立に尽力した)に背いてまで「倒幕」に傾倒した西郷はあらゆる手段で殊勝な態度と恭順さを示した慶喜を追い詰め、前将軍の新政府参加という道を阻んだ。

 さすがにこれには薩長に協力的だった松平春嶽(前福井藩主)、徳川慶勝(前尾張藩主)でさえ反対の立場を表明した。このときのあらゆる手段というのには根っからの佐幕派だった孝明天皇暗殺、薩摩藩による治安破壊工作、逆に激怒した幕府や庶民が薩摩藩邸焼き討ちの反撃に出るとこれを口実にして挙兵した。

 坂本龍馬が事実として「大政奉還」という裏技を、後藤象二郎を通じて将軍慶喜に伝授したのであれば、暗殺の黒幕として一番疑わしいのは武力倒幕にこだわって、その後むりやり実施した薩摩藩であり、西郷自身だということになる。幼帝に偽勅を乱発させ、既に総大将が事実上の白旗を掲げている相手に錦の御旗を掲げて踏みつぶしたのだ。これこそが正に維新前夜における西郷のダークサイドだ。
高知県南国市の飲食店敷地内につくられた坂本龍馬像
高知県南国市の飲食店敷地内につくられた坂本龍馬像
 そもそも本当に明治維新は必要だったのだろうか。大胆な改革をするだけの力が幕府にはないというのが明治維新肯定派の意見だが、なにより「大政奉還」そのものが一番大胆かつドラスティックな政策転換である。そして明治新政府が実際に行った版籍奉還、廃藩置県よりも、天皇制のもとで徳川慶喜自身を含めた全ての大名小名が各領知事に就任し、知事・参議による合議体制(議会)を開催する方向性の方がはるかにソフトランディングにかなっていたし、いきなりヨソから来た得体の知れない人間が知事になるより、もともとのお殿様が「知事」と名を変えるだけの方が庶民にも受け入れやすかったはずだ。

 ときどき龍馬が生きていたらなにをしただろうといった愚かな質問をする人がいるが、そんなのは自由民権運動に決まっている。実際に弟子である陸奥宗光も、同郷の後藤象二郎、そして龍馬の代わりに代名詞となった板垣退助も旧土佐藩を中心に自由民権運動に維新後の半生を捧げた。もともと龍馬が彼らにアメリカ式のデモクラシーを吹き込んだ張本人だし、後に福澤諭吉が西郷や江藤新平らと共に中央政界から弾き出された後藤・板垣にその意義を説いた。暗殺で非業の死を遂げずに維新後を生きていたら、「日本民主主義の父」と諡(し)されていたであろう。

 そもそも、もし参政権を当時の日本人男女全員に与えていたら9割近くはもともとのお殿様や大地主が当選していた。つまり、時代と社会とが一足飛びに「戦後」に飛んでいた。実際のところ、現在の民主主義だってほとんどはカバン(資金)、看板(知名度)、地盤(地元との関係性)に代表される要素で決まっている。それでも間違いなく上手くいっていたし、むしろ「和を以て貴しとなす」日本の文化・文明に適合していた。なにより話し合いはまとまらない。まとまらないからこそ「(外国や自国軍隊に)恫喝(どうかつ)される」か、「危機意識を共有する」か、でしかまとめようがない。実際に明治維新も含め、この国が大きく転換するのは外的要素が絡んだときだけである。

 幕末期は先の龍馬を引き合いに出すまでもなく、多くの優秀な人材をうしない、それは新政府樹立後も変わらなかった。結果的には西郷、大久保、伊藤たちの血も流れることになってしまった。西郷は最期は悲劇の人で早々に復権を果たすが、それもこれも西郷が怨霊化しそうなほど、長州藩の主導する明治政府を恨んでいたからに違いない。
 
 また、それ以前に西郷は三つの大きな呪いともいうべき呪縛を日本人に与えていた。岩倉・大久保・木戸が外遊し、西郷が留守内閣を任されていた時代に、後にこの国に悲劇をもたらす二つの事柄と一つの方針が掲げられた。