そのイトが上野の銅像除幕式に参列して、銅像にあぜんとした。「あれは『かり』の姿で、本当は実に威儀を正した、何事にもきちんとした人だった」と思わず語った。従道が「みんなの浄財で建ったのだから、そういうことはいってはいけません」とイトをいさめた。銅像の西郷が明治六年の政変に敗れて下野し、普段着に愛犬を連れた隠居姿だったからだ。イトはおそらく、10年前に京都に建つはずだった、西郷の陸軍大将姿を思い浮かべていたのだろう。

 銅像の建設には、西郷や犬の顔をどうするかの試行錯誤があったといわれ、西郷の顔は身内の顔を参考にしたエドワード・キヨソーネのコンテ画をもとに製作した。犬は薩摩犬の愛犬ツンというメス犬を基本にオスにしたという。しかも、上野の山に建てたのも、東北列藩にたいしてにらみを利かすためといわれるが、決してそうではない。西郷は会津藩家老西郷頼母と親交があり、会津戦争後に助命嘆願を求めた頼母に書面と見舞金を送っていた。薩摩の西郷のもとには庄内の青年たちが来て、西郷の精神を求めていた。その教えをもとに『西郷南洲翁遺訓』が刊行されたのである。

鹿児島市の城山のふもとに建つ西郷隆盛像。
観光客の絶好の記念撮影スポットになっている
 西郷や大久保利通をはじめとする薩摩出身の明治維新の指導者たちは、青少年の教育制度「郷中教育」で育った。郷中教育はよくボーイスカウト活動に似ているといわれている。先生が生徒を教えるのではなく、地域の年長者が年少者を指導するところからイギリスの軍人ベーデン・パウエル卿が1908年、イタリアの教育者モンテッソーリの教育法を取り入れ、創設されたのがボーイスカウトである。

 郷中教育とボーイスカウトとは一般的には無関係といわれるが、1929年、イギリス国王ジョージ5世の戴冠(たいかん)式に明治天皇の名代として東伏見宮依仁(よりひと)親王が出られ、乃木希典が随行した。乃木の日記には、パウエル卿の案内でボーイスカウトを視察し、乃木がその素晴らしさに感激し「どのようにして、このような訓練を考えられたのか」と尋ねると、パウエル卿は「日本の薩摩の健児の舎、つまり郷中教育を知り、よいところを取り入れ組織化しました」と答えたという。パウエル卿が実際にボーイスカウトに郷中教育を取り入れたかは別として、郷中教育を高く評価していたのである。パウエル卿は、生麦事件や薩英戦争の教訓として調べていたのだろう。

 西郷は郷中教育の他に、17歳から28歳まで毎日、薩摩誓光寺で参禅を欠かさず、無参和尚から禅問答で「活きた実物をみるべき」と諭された。禅の「即今」は「過去は変えられないし、未来は現実でない。ただひたすらに今を生き切る」ことを言う。西郷はその後の人生で困難に遭遇すると、「即今」の信念をもって貫徹した。