その後、西郷は藩主島津斉彬(なりあきら)に見いだされるが、斉彬の目にとまった一言がおもしろい。斉彬が江戸で土佐藩主の山内容堂に会ったとき「『お前のところには西郷という偉い家来がいるそうだが』との言葉に、西郷を知らなかった斉彬は仰天した」(孫の西郷吉之助談)。斉彬は下級藩士を一気に登用するわけにもいかず御庭番にした。日々西郷を身近に置きたかったのである。

 安政元(1854)年4月、西郷は28歳のとき、藩主斉彬の江戸参勤に従い御庭番方役と鳥預となり、役料米二十四俵一斗で江戸勤務となった。藩主のそばで御庭番と小鳥の餌すりをしながら藩主の考えを聞くことができた。斉彬は「蘭癖大名」と周りから呼ばれるほど、常に世界地図を頭に描きながら、薩摩の近代化を目指して取り組んでいた。西郷は斉彬の開明的な発想にすっかり感心させられた。

幕末の薩摩藩主、島津斉彬
 斉彬は日本を刷新するには、英明な人材を将軍職につかせることが必要だと考え、開明派の越前藩主松平春嶽らと将軍継嗣問題で一橋慶喜を推していた。これに対し、大老井伊直弼は紀州藩主の徳川慶福(のち家茂)を推した。英明の一橋派、将軍の血脈の南紀派と分かれた。西郷は斉彬の密命を受け東奔西走し、江戸では有能の人物と親交を結んだ。樺山三円の紹介で水戸藩士の藤田東湖と会い、水戸学の尊王攘夷思想の影響を受けた。将軍継嗣問題で会った越前の橋本左内は年少であったが、開明的な考えに会うたびに感銘し、「わが師は東湖、わが友は左内」と称したという。

 西郷は篤姫が将軍徳川家定に嫁ぐ際、京都などで婚礼調度を買い入れし、斉彬から大奥での一橋派への尽力を求められていたという。結局、井伊大老は14代将軍を家茂に決めた。さらに西郷は斉彬の急死を京都で聞き「もはや生きていても仕方がない」と悲嘆にくれ、後追い自殺を考えた。だが、清水寺僧月照から「生きて斉彬の遺志を継ぎ国事に尽くせなければいけない」と諭された。

 安政の大獄で京都を追われた月照が薩摩に逃れてきた。ところが藩が月照の薩摩入りを拒否したため、西郷は錦江湾に漕ぎ出た屋形船から月照を抱えて入水自殺した。ふたりは海面に浮かんできたが、西郷は蘇生(そせい)し、月照は亡くなった。藩では葬ることはできず、薩摩藩御用商人の波江野休右衛門が西郷家墓地の近くに葬った。薩摩藩庁は西郷も死んだこととし、菊池源吾と改名させ、奄美大島に潜居させた。西郷の第二の人生はここで始まり、島の有力者の娘の愛加那(あいかな)と結ばれ、菊次郎と菊子が生まれた。成長した菊次郎は西南戦争で足を失いながらも外務省に入り、京都市長になっている。

 大島から呼び戻された西郷だったが、お由羅騒動で起きた斉彬の腹違いの弟、「国父」島津久光との確執は上京計画の反対や、寺田屋騒動への連座で溝が深まるばかりであった。久光は西郷を徳之島さらに沖永良部島へ流罪した。西郷は久光を「じごろ(田舎者)」とよび蔑視したという。結局、西郷は元治元(1864)年2月、38歳で赦免されることが決まった。苦々しく思った久光がくわえていた銀のキセルには歯型がくっきりついたという。