赦免された西郷を待ち受けていたのは禁門の変であった。西郷は「会津と長州の私闘である」と判断していた。斉彬の遺志は勤王主義であった。大久保利通宛の書状にも「今度の戦争は、まったくの長・会の私斗に御座候間、無名の軍を動かし候場合にこれ無く、誠に御遺策の通り、禁闕守護一筋に相守り候」と記し、薩摩は幕府の出兵命令をためらった。しかし、長州が禁闕、つまり御所蛤御門を突破したため、西郷は薩摩藩として亡き斉彬の遺策に従い、御所を守る出兵に踏み切った。
幕末の動乱期、禁門の変(蛤御門の変)の舞台となったことで有名な蛤御門=京都市上京区の京都御苑
幕末の動乱期、禁門の変(蛤御門の変)の舞台となったことで有名な蛤御門=京都市上京区の京都御苑
 西郷は以来天皇寄りの考えになり、公武合体から公議政体への道を歩み出した。

 西郷と勝海舟の初対面はその年の9月のことであった。当時、西郷は京都留守居格、勝は軍艦奉行と神戸海軍操練所頭取を兼務する幕府の高官であった。西郷と対面した勝は「おれは今までに天下で恐ろしいものを二人みたよ。それは横井小楠と西郷南洲だ」と評した。また西郷も勝の人物評を大久保宛の書状で「勝氏に面会したが、実に驚くべき人物である。はじめは打ち負かすつもりだったが、こちらの頭が下がるような状態であった。どれだけ知略があるかわからない英雄肌の人物である」と伝えた。

 二人は禁門の変で朝敵となった長州藩の戦後処理について話し合った。勝は幕臣でありながら幕府内部の腐敗ぶりを明らかにし、これからは雄藩が協力して国難に当たるべきと力説した。西郷は、この会談を契機に長州藩に対する処罰を穏便に済ませようと今までの強硬路線を転換させた。薩長同盟の尽力は坂本龍馬の独り舞台のように語られるが、このころに西郷の心づもりはできていたのである。

 西郷は、近代国家の樹立が国際情勢からみて急務であり、西南雄藩連合によるべきと痛感していた。大政奉還から王政復古での人選をみても、近代国家にかける意気込みが感じられる。西郷は鳥羽伏見の戦いに天皇のシンボルである錦の御旗を掲げて勝利し、勢いづいていた。一方、最後の将軍慶喜は恭順を表し謹慎中であったが、勝は江戸百万都市をどう守るか思案していた。

 慶応4(1868)年正月21日、徳川宗家の寛大な処分には孝明天皇の妹和宮しかないと周りは期待をかけ、和宮は嘆願書を東征軍鎮撫(ちんぶ)使橋本実梁(さねやな)へ届けた。「慶喜一身は如何様にも仰せられ、何卒家名立ち行き候様幾重にも願い度候」と、慶喜の処分を受ける代わりに、徳川宗家の存続を望んだのである。慶喜の処分については、厳罰派の西郷と寛大派の岩倉具視で対立していた。西郷は大久保宛の書状に「慶喜隠退の嘆願、甚だ以て不届千万、ぜひ切腹迄には参り申さず候はでは相済まず、必ず越前、土佐などより寛論起り候わん。然らば静寛院(和宮)と申しても、矢張り賊の一味と成りて、隠退位にて相済み候事と思しめされ候はば、致し方なく候に付、断然追討在らせられ度事と存じ奉り候」(2月2日)と腹の虫が収まらない様子だった。

 朝廷から和宮への返答は「この度の事は、実に容易ならざる義に候へ共、条理明白」で、門前払いであった。篤姫から西郷にも「徳川家無事に相続相い叶い候様御取り扱いの偏に偏に御頼り申し候」と嘆願書を届けた。西郷は篤姫に薩摩に戻ってほしかったという。