勝は西郷の真意を探るため、幕臣山岡鉄舟と大久保一翁に会った。初めて山岡に会った勝は、見識があり、剣と禅で精神を練っただけあって肝が据わった人物とみた。禅をしていた西郷と交渉するため、山岡を使者にたてることにした。ちょうどこの日の3月6日、駿府では軍事会議が開かれ、大総督府は、15日に江戸城総攻撃を決定した。3月9日、駿府で山岡と西郷は会談を持った。このとき勝は山岡に書状を託していた。

「主義主張が変われども天皇を抱く国民であり、徳川の臣も天皇の民であることに変わりない。戦いになればその責任はあなた方でとってもらう。戦禍になれば江戸百万都市は二度と戻らない」

 西郷は心が揺らいだ。斉彬の遺志は、勤王主義による共存共栄が国家をよりよくすることだったからである。山岡は毅然(きぜん)とした態度で西郷に英断を迫った。現実をみて判断すること、まさに生き切る禅の「即今」の考えを求めたのである。西郷のそばに控えていた桐野利秋は山岡を斬ろうしたが、寸分の隙がなかったと回想している。

 ついに3月13日、14日、西郷と勝は江戸で会談し、西郷は総督府と協議し、江戸無血開城が決まった。その裏で勝は英国公使パークスと相談した上で、新政府軍の江戸城攻撃に正当性はないと西郷にクギを刺していた。両雄の英断が江戸を守ったのである。

東京・上野公園の西郷隆盛銅像で、
西郷が連れているオス犬(大井田裕撮影)
 しかし、明治新政府は西郷の描いた国家ではなく藩閥政治であり、中央官僚がすべてを牛耳っていた。岩倉遣欧使節団の外遊組が台頭して西郷の留守政府派と対立、明治六年の政変に敗れた西郷は下野し郷里へ帰り、愛犬を伴い野山をかけめぐりウサギ狩りを楽しんだ。

 各地で不平士族の反乱が相次ぐ中で、西郷の私学校党の生徒が決起した。世にいう西南戦争である。西郷軍と新政府軍は激しく戦った。このとき西郷軍は賊軍の汚名を着せられることとなった。新政府軍は、川路利良の警察抜刀隊を投入した。明治10(1877)年9月24日、西郷は城山で自刃した。行年(ぎょうねん)51歳だった。

 西南戦争で西郷に従った旧中津藩士の増田宋太郎は「吾此処に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加はり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ」と評し、西郷の度量の大きさと人間としての資質の魅力を物語っている。

 西郷は西南戦争で愛犬を連れていた。9月30日、新政府軍の近衛兵が船で神戸に着いたが、戦利品として西郷の愛犬を連れていた。

 三十日、汽船にて西京(京都)へ通行の近衛隊内に、西郷隆盛が常に愛せし犬三頭を戦地に於いて分捕せし由ひき連れられたりと云う。その一疋は栗毛、至て巨大なりしと、そのほか二疋は黒犬にて、もっとも洋銀の鎖を以てこれをつなぎ有し由。

 西郷の真心をいちばんよくわかっていたのは愛犬だったかもしれない。