「なんで千代の富士にあんな大金を賭けられるのか教えてほしい。千代の富士は休み明けだ。競馬だったら、絶対にこない。だからブックメーカーもオッズを5倍にしたのに」。彼の質問はもっともだった。場所前、千代の富士は休場明けで稽古も足りていないとスポーツ紙は報道していた。それに比べて、夏場所と秋場所を連覇してきた旭富士は絶好調だと伝えられていた。私の答えは書くまでもない。

「相撲はフェアプレーではないからね。力士たちは土俵の外で星(勝敗)の売り買いをしているんだ」
「まさか」
「知らなかったのか?」
「ああ。となると、相撲はフェアプレーではなくて『フェアリープレー』だな」

 さすがに英国人。ジョークがきつかった。フェアリーとは「fairy」で「妖精」のこと。フェアリーテールは「おとぎ話」だから、フェアリープレーはさしずめ「おとぎ遊び」になるだろう。相撲はフェアリープレー。この言葉はその後、ずっと私の頭の中に残った。

 ところで、「相撲道」と言われて思うのは「横綱の品格」である。こちらもなんだかわからない。定義がない。

 1992年、千代の富士が引退後の土俵で、横綱昇進間違いなしの成績を残した大関小錦は、横綱審議委員会(横審)で推挙もされなかった。それで、米紙ニューヨーク・タイムズは「小錦が横綱になれないのは人種差別のせい」という記事を載せた。要するに、外国人は品格が理解できないとして不当に差別されていると言うのだ。

2010年2月、大相撲初場所中に起こした泥酔暴行問題の
責任を取り、引退表明した横綱朝青龍=両国国技館(千村安雄撮影)
 当時、作家の児島襄氏が『文藝春秋』に「『外人横綱』は要らない」という論文を寄稿していた。そこには、「国技である相撲は、守礼を基本とする日本の精神文化そのものであり、歴史や言語の違う外国人には理解できない」とあり、明らかに「横綱の品格」は日本人だけしか持ち合わせないものになっていた。

 しかし、その後、曙、武蔵丸、朝青龍と、外国人横綱が次々誕生した。なんのことはない、外国人にも「品格」があることになってしまったのである。そのため、白鵬の「あれは待っただイチャモン」と「千秋楽みんなでバンザイ」が問題視されることになった。

 このようにすべてはいい加減、そのときのムード、風潮、空気で決まる。この空気で物事が決まるというのは日本独特の文化だから、相撲はその意味で日本の伝統文化といえる。ただし、空気は存在するが、それを証明することはできない。

 朝青龍は「品格」について悩んでいたという話がある。NHKの刈屋富士雄アナウンサーが相撲中継の折に、一つのエピソードとして語ったところによると、朝青龍は刈屋アナに品格とはなにかと何度も聞いてきたという。それで、刈屋アナは「人よりも自分に厳しいこと。人よりも努力をすること。そして、人に対して優しくあること」を挙げたという。朝青龍はこれを聞いてうなずいたそうだが、「それよりも勝つことのほうが大事なんじゃないか」と言ったという。