古事記のなかの短い一節の中でも、野見宿禰が勝っておごらず、どこまでも人の命を大切にした人物であったことが説かれています。敗れた當摩蹶速も、はじめから死生を問わずに全力で戦うと宣言し、本人は亡くなってしまいますが、その身内衆も、敗れて腐ったりしていません。

 つまり力士というのは、ただ力が強くて並ぶべき人もいない強者というだけでなく、勝敗を超えたところに力士という存在があり、同時に力士は人々の生命を救う優しさを持った人物であることが説かれているわけです。

 相撲界では、親方がまさに親となって力士を育て、力士は精進して大関となり、さらに人格識見ともに優れた力士と認められた人が横綱となりました。ですから横綱は、神界の力士とこの世の力士の境にある注連縄(しめなわ)を横に張る、人々の模範となる偉大な存在とされてきたのです。そして勝って奢らず、負けて腐らず、相撲を極めた存在として尊敬を集めてきたのです。そして横綱であっても、親方の前では頭を垂れます。そうした姿がまた孝の道でもあったわけです。

 相撲道について、わかりやすいエピソードをもうひとつご紹介したいと思います。雷電為右衛門(らいでんためえもん)と、浦風(うらかぜ)親方のお話です。

 雷電為右衛門は江戸時代の人で、大相撲史上、古今未曾有(みぞう)の「最強力士」と呼ばれている力士です。幕下を飛ばして、いきなり関脇でデビューしたと思ったら、初場所でいきなり優勝。以降、幕内通算成績は、35場所で、254勝10敗2分14預5無勝負です。優勝回数は27回。この時代の大相撲は年2場所制です。いまは、年6場所制です。年6場所になった現在でも優勝回数は白鵬の40回が最高ですから、雷電の年2場所時代の優勝27回が、どれだけすごい成績かわかると思います。ちなみに大鵬の幕内勝率は83.7%に対し、雷電は勝率96.2%です。これもまた、現在に至るも更新されていない記録です。

雷電為右衛門の錦絵
雷電為右衛門の錦絵
 そんな雷電は、下積み時代が長い力士でもありました。雷電を育てた浦風親方は、雷電の資質を見抜いていました。だからこそ、彼を本物の力士に育てるため、いつ幕内に出しても全勝間違いなしとわかっていながら、6年間も見習い力士のまま、彼を据え置いていたのです。

 そしてただ相撲が強いだけでなく、書も達者で、人格も見事な、やさしさのある本物の力士をつくり上げました。浦風親方は、本当に立派な親方であったと思います。なぜなら、浦風親方は、ただ試合に勝つ力士を育てたのではなく、どこまでも「人を育てた親方」であるからです。雷電も、親方の配慮によく耐え、我慢し、人一倍練習に励みました。

 そんな雷電に、ようやく初土俵の話が持ち込まれたのが、寛政2(1790)年11月のことです。寛政2年といえば、松平定信が寛政の改革を打ち出していた時代にあたります。雷電は、江戸の興行で、いきなり西方の関脇付け出しで初土俵を踏みました。

 番付は、実力者で小結だった柏戸勘太夫よりも上におかれたスタートです。これは、普通ではありえないスタートです。雷電の初土俵の取り組み相手は、大柄な八角という名の猛者でした。立合いざま雷電は、右手一発の張り手を繰り出しました。この一発で大男の八角は、土俵の外まで吹っ飛ばされてしまったそうです。

 さらに雷電は、この場所で横綱免許の小野川喜三郎とさえ預かり相撲(引き分け)としてしまいました。初場所でいきなり8勝2預り、負けなしです。